この6月に上梓された『零の晩夏』は、純然たる小説家・岩井俊二としての作品。映画監督・岩井俊二が映画の原作として書いたもの、というわけではない。

 映像と文章、どちらにおいてもこれほどの高みで表現をし続ける人は稀だ。岩井俊二は、なぜこれほど幅広い活動を続けているのだろう。そして小説を書くとは、本人のなかで何か特別な意義や意味を持つことなのだろうか。(全2回の2回目。#1から読む)

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小説、絵、映画、漫画は半ば混じり合っている

「幅広い活動」と言ってくださいますが、僕のなかでは自分の活動範囲ってものすごく狭いなと感じます。

 僕は中学生のときに小説家になりたいと思ったんですが、高校2年のときに剣道部をやめてまで入ったのは美術部でした。でもそれは、小説を書くためだったんです。なぜかそのとき、「小説を書くなら剣道をやっているより美術部のほうが役立つはず」と思い込んでしまって。

 美術部に入ったら入ったで、3年生になると映画を自分で撮ってみたいという衝動に駆られて、大学に入って映画作りに没入します。当時は漫画を描いたりもしていました。

 僕にとっては小説、絵、映画、漫画といった表現は、ほとんど隣り合わせというか、半ば混じり合っているようなイメージなんですね。根っこは同じ、ただし用いる技術や方法は違うから、それぞれのジャンルの法則は身につけないといけないな、という感じ。音楽もそうです。

 いろんな表現を手がけていると、学びも多いですよ。たとえば語り方ひとつとっても、特長がまるで違う。

 小説は一人称の語りを用いた場合、何から何まですべてが主人公のモノローグによって展開されることになります。風景描写も他者の行動も、主人公たる「私」がこう見た、こう感じたと書いていかないといけない。心の動きをつぶさに追うことはできるけれど、主人公の知り得ない部分まで描くのはなかなか難しい。複数の一人称が登場する場合もありますが、どうも、そういう表現を潔しとしないところがある。

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 これが映画だと、今度は一人称のモノローグはほとんど入れられません。主人公の内面の声をずっと流していたら、観る側は煩わしいです。映画はもっと三人称的に登場人物の行動を描写するのが相応しい。

 一方で漫画だと不思議なことに、複数の一人称が自由自在なところがある。主役であろうが脇役であろうが、1コマごとに別々のキャラクターにモノローグをつけても全く違和感がない。主人公と敵のキャラが闘っているとき、互いの心情を顔のアップとともにモノローグのセリフで書き込むようなことが、平気でできる。これは映画にも小説にもない不思議な特長です。