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小説を書くときにいつも思うのは、これは一本の糸なのだと

 メディアによって、表現できることはこれほど違う。そこはおもしろいですし、それぞれのジャンルを直に触ってきたことで、気づけたことも多かった。

 たとえば小説を書いているときには、シナリオを書いているときには絶対出てこないようなイマジネーションが、あっさり出てきたりします。もちろん逆もあり得ます。シナリオでないと出てこない表現。絵コンテじゃないと出てこなかった表現。そういうのは確実にあります。

 今回書いた小説『零の晩夏』は、一人称で語られる物語です。映画ではやりづらい方法を用いて、小説ならではの表現をしてみたというのはあるでしょう。まあ今回に限らず小説を書くときは小説に没頭していて、ほかの何かのためにやるという余裕はないです。

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 小説を書くときにいつも思うのは、これは一本の糸なのだと。小説は言葉です。その言葉をずっとつなげていく作業が小説を書くということなんだと。話がどういう方向に進もうとも、語り手の言葉が一本の糸として紡がれて、その限りに於いてすべてはつながっているはずだと。

©文藝春秋

ナユタという画家の絵がどんな風に再現されるのか

 それともうひとつ意識しているのは、言葉は音であると。文字とは音楽における音符であって、音の種類を記録するコードであって、実際は必ず誰かが発語している。それが文章なのだと。それは小説であっても、何かの取扱説明書であっても。文章である限りは必ず誰かの声が、語り部の声が存在するはずであると。

 文章である限りは、それをコードのままではなく、音声化して初めて成就するものなのだと。これは読者に音読してくださいと言っているのではなくて、黙読していても、脳内では、それを声として聞いているはずだと。その意識は強くあります。

 ひとつ前に書いた『ラストレター』は主人公が小説家だったので、小説としては書きやすかったわけですが、『零の晩夏』の主人公は小説家ではないわけです。その人の言葉で書かなければならない。それでいて、稚拙過ぎると読みづらい。そういう部分に苦労はありましたが、どの作品にもついて回る宿命です。

 世の中のあらゆる文章は誰かが書いている。誰かが声を発している。どんな文章にも声が宿っている。そんなことに想いを馳せながら、一本の糸から織り上げるようにして、文章を紡いでゆく。このぐらいの小説になると、アラベスクの絨毯のような複雑な模様を描くような難しさに目眩がすることもありますが、何ものにも代えがたいカタルシスもありました。ナユタという画家の絵の世界。その絵は実在はしていないわけです。それを言葉という、一本の糸で、八千草花音という語り部の声で細部まで描き込む、というのが今回の挑戦だった気がします。この小説を読んだ方の脳内で、その絵がどんな風に再現されるのか。その絵は本人しか見ることができません。僕ですら見ることができません。それがこの小説の稀有なところかもしれません。

(撮影:山元茂樹/文藝春秋)

零の晩夏

岩井 俊二

文藝春秋

2021年6月25日 発売