現代美術家の杉本博司が2017年度の文化功労者に選出され、「文化功労者として、これからも国威発揚を文化を通じて行っていく」などとのコメントを発表して、物議をかもしている。
その反応の多くは「なにを頓珍漢なことを」という驚きよりも、「ついにこのときが来たか」という諦念だっただろう。
近年、政治と文化芸術はこれまでになく接近しつつある。そのため、杉本の真意は別として、その口から「国威発揚」という古めかしい言葉が出たことに大きな反響があったわけである。
「国威発揚」の問題点とは?
国威発揚のなにが悪いのか。日本人が日本の国威を発揚するのは当然のことだ。今日では、こういう定型的な反論がすぐに出るだろう。
国威発揚の芸術の最大の問題は、表現者がテーマの設定権を外部に奪われ、その結果、表現の多様性が損なわれることにある。
表現者は、与えられたテーマで表現するだけではなく、テーマそのものを自分で設定し、ときに既存のテーマを懐疑し破壊する。
いいかえれば、決められたゲームのなかで高得点を競うのではなく、ゲームのルールそのものを疑い、変えてしまう。その自由さと自主性こそが、表現の多様性を担保している。
ところが国威発揚の芸術では、公的な機関がせり出して「つぎはこれだ」とテーマを設定してくる。表現者は、そこにほとんど介入できない。
そのため、いったん国威発揚に乗っかると、表現者の持ち前の自由さや自主性が損なわれてしまう。しかも政治権力は、予算や名誉や規制でがんじがらめにしてくるのだからたちが悪い。
「敵」認定と排除 ときに醜い密告合戦に発展さえする
いやなら従わなければいいのではないか、というかもしれない。
だが、国威発揚の芸術は、かならず「国威を発揚しない芸術」を用意し、抑圧する。ナチス・ドイツの退廃芸術、戦時下日本のジャズ、社会主義国のブルジョワ芸術などがそうだ。
両者は、ときどきの政治権力などによって恣意的に分断される。そのため、表現者は「敵」認定と排除に怯え、有力者や統制団体などの意向を忖度せざるをえない。
表現者同士のなにげない揉め事も、この環境では、ときに醜い密告合戦に発展したりする。こうして、国威発揚自体を疑うこと、否定することがますますむずかしくなっていく。
「親日芸術」対「反日芸術」の時代へ?
今後の日本では、「親日芸術」と「反日芸術」が対置されるかもしれない。すでに2016年度の文化庁芸術祭賞の審査過程で、文化庁の職員が「国を批判するような番組を賞に選ぶのはいかがなものか」との趣旨の発言を行っている。その事実を思い出してもらいたい。
こうした状況下で生み出される表現が、いかに退屈でつまらないか。それは同時代の証言が多数あるし、プロパガンダ作品の類を少しでも観賞してみれば、たちどころにわかるだろう。