日常で使う様々な言い回し。話していて、書いていて、ふとした瞬間に「あれ、これで言い方あっていたっけ……?」と疑念がよぎることはないだろうか。

 そんな日常で直面する「微妙におかしな日本語」について、『日本国語大辞典』の元編集長で、辞書一筋37年の神永曉氏が解説した『微妙におかしな日本語――ことばの結びつきの正解・不正解』より、一部を抜粋して引用する。

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 納得がいく、合点がいくという意味で「腑に落ちる」という言い方を聞いたとき、私は「腑に落ちない」と下に否定の語を伴って使うのが普通の形なのではないかと思っていたことがある。

 だが、この語は辞典での扱いが揺れている語で、辞典によって見出し語を「腑に落ちない」としたり「腑に落ちる」としたりしているのである。これを中型以上の国語辞典で見てみると以下のようになる。

「腑に落ちない」派:『大辞林』『広辞苑』

「腑に落ちる」派:『日本国語大辞典(以下、日国)』

 両用派:『大辞泉』

「腑に落ちる」派の『日国』は、解説に「多く、下に否定の語を伴って用いる」と付け加えていながら、徳冨蘆花の自伝的小説『思出の記』(1900~01年)の、

「学校の様子も大略腑に落ちて」

 という否定の語が下に続かない用例を載せている。

 また、両用派の『大辞泉』は、「腑に落ちる」に、織田作之助の小説『わが町』(1943年)の、

「大西質店へ行けと言った意味などが腑に落ちた」

 という用例を添えている。

 ただ、実際の使用例も小型の辞典の見出し語の語形や添えられた例文も、圧倒的に「腑に落ちない」の方が多い。

 だが、文学作品で「腑に落ちる」を探してみると、泉鏡花、高山樗牛、夏目漱石、有島武郎といった著名な作家の使用例が数多く見つかる。たとえば、夏目漱石の『私の個人主義』(1915年)には、

「譬へばある西洋人が甲といふ同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、其評の当否は丸で考へずに、自分の腑に落ちやうが落ちまいが、無暗に其評を触れ散らかすのです」

 という使用例がある。いささか耳に痛い内容だが、講演筆記とはいえ、「腑に落ちる」も「腑に落ちない」も両方対比させて出てくる例は貴重であろう。

「腑に落ちる」は最近使われるようになったわけではなく、明治時代にはすでに使われていたようなのである。

 結局「腑に落ちる」をおかしいと感じたのは私の思い込みだったようで、今では辞典としては『大辞泉』のように両形示すやり方が妥当だと思っている。

 なお、古くは「腑に入る」という言い方もあったようで、『日国』では、浄瑠璃の『蒲冠者藤戸合戦』(1730年初演)の、

「腑に入ぬ、にがい詞もあま口で殺すにまさる甘露の仕置」

 という例を引用している。