職員が10人にも満たない、まだまだ不毛の地だった札幌
ただ、この頃の札幌はまだまだ北海道の中心都市にはほど遠い存在だった。当時の北海道は本格的な開拓がスタートしたばかり。本州からの玄関口でもあった函館がまだまだ優位に立っていた。むしろ札幌のある石狩平野は不毛の泥炭地。都市化以前に、農業すら不向きとされるような地域だったのだ。
それでも明治政府は早くから札幌に目をつけていたようで、1869年には島義勇が札幌を本府建設地に選定し、開発をはじめている。すなわち今の札幌の市街地に通じる都市の整備のスタートで、現在の大通公園を中心として北を官地、南を民地とする区画整理を行った。今でも行政機関は大通公園の北にあり、すすきのや狸小路といった商業地は大通公園の南側。明治のはじめの開拓が、今にもしっかりと根付いているのだ。
いずれにしても、札幌駅が開業した当時はまだまだ札幌は不毛の地だったといっていい。場長(駅長)の他には駅員が7、8人程度、つまり職員が10人にも満たなかった。それは港直結の手宮駅も同じだったが、とにかく小さな駅に過ぎなかった。むしろこの鉄道開通は小樽の発展を促し、現在に通じる小樽の繁栄の礎となっている。
その後の札幌は明治初期の我が国の産業の根幹だった石炭の輸送ルート枢要の地として発展を遂げる。開拓使は北海道開拓のために盛んに産業を興し、そのひとつは1876年に設立した開拓使麦酒醸造所。のちにさまざまな変遷を経て、現在はサッポロビールになっている。もはや札幌の代名詞でもあるサッポロビール、そのはじまりは北海道の開拓にあった。
戦後の成長とともに大都市へ
開拓使が廃止された1886年には北海道庁が札幌に置かれ、行政の中心としての立場を確かなものにする。戦前までは小樽や函館が商業、札幌が行政という役割分担があったが、戦後になって本格的に札幌は北海道の中心として飛躍していった。その引力で道内の他の都市の人口をも吸収していき、1950年には40万人に満たなかった人口も、今では200万人に迫るまでに増えた。戦後の経済成長と歩調を合わせて大都市へと成長していったのだ。
1972年には札幌冬季オリンピック。日の丸飛行隊がスキージャンプで表彰台を独占したあのオリンピックだ。それに合わせて札幌市営地下鉄南北線が開通しているが、これは東京・大阪・名古屋に次ぐ日本では4都市目の地下鉄であった。
こうして札幌が大都市として成長すれば、駅の南側が中心だった札幌市の市街地も駅の北へと拡大してゆく。最初はせいぜい北海道大学や競馬場くらいだった札幌駅の北側も、いまではすっかり市街地だ。北側の駅前広場も立派なもので、オフィスビルやホテルなどがいくつも建ち並ぶ。人気のない“駅裏”とはまったく違う姿である。