何とか生き残れ、しかし捕虜にはなるな
隊長である先生の西平は、壕内に全生徒を集めて軍の解散命令を伝え、別れの訓示をしました。その夜、沖縄の戦場は青白い月明のもとにかがやいていたといいますから、生徒たち一人ひとりの顔がよく見分けられたことでしょう。
「皇軍の必勝を期して頑張ってきたけれど、残念ながらこんな結果になってしまった。今となっては、われわれに残されている道は国頭突破しかない。
……皆がひとかたまりになって行くわけにはいかないから、それぞれ4、5名の班をつくって行くことにする。……しかし、戦線突破は決してやさしいものではない。もし誰かが傷ついて動けないようなことがあったら捨てて行け。戦争というものは不人情なものだ。……不幸にして負傷した場合には、負傷者もその点はよく覚悟をしなければならない。ひとりの負傷者のために皆死んでしまってはなんにもならない。ひとりでも多く生き残らねばならない」
訓示する先生もつらかったでしょうが、聞いている女学生のほうがもっとつらく、悲しく、はげしく胸に迫るものがあったといいます。そして最後に西平はこうつけ加えます。
「しかし――捕虜にはなるな」
捕虜になった沖縄女性に関する記事を、戦場で刷られたタブロイド判の新聞「沖縄民報」(「沖縄新報」か?)で、女学生たちは読んでいました。
生命を惜しんで敵陣に走って捕虜となった女性たちが、多くの米兵にさんざんもてあそばれた末に、軍艦にのせられて、毎夜のように彼女たちの悲しい歌声が海上に流れている、ということを女学生たちは知っていました。
何とか生き残れ、しかし捕虜にはなるな。この大きな矛盾を、彼女たちは当然のことと胸にうけとめました。つまりは、いざというときには“死んでくれ”といわれているにひとしいことなのです。
もちろん、タブロイド判「沖縄民報」の記事はいまになればいわゆるフェイクニュース、虚偽の報道であることはわかります。常識で考えれば、米軍がそんな非人道的なことをするはずはありません。
戦時下には、しかし、非戦闘員の士気を萎えさせないために、闘争心をかき立てるために、さまざまな流言飛語が飛びかいました。あるいは大小の戦争指導者たちが意図的にでっちあげて、流したものが多くあったことは事実なのです。
当時15歳のわたくしも同じような体験をしています。勤労動員で工場で働いているとき、先生や軍国おじさんからしょっちゅうこういわれていました。