真珠湾攻撃をはじめとした、太平洋戦争緒戦での作戦立案指揮で活躍した山本五十六。昭和海軍を代表する人物で、彼に関する書籍・映画・評伝は数多く発表されている。一方で山本五十六の軍人としての評価はなおざりにされている状況だという。

 そう語るのは軍事史研究者の大木毅氏。ここでは同氏の著書『「太平洋の巨鷲」山本五十六 用兵思想から見た真価』(角川新書)の一部を抜粋。三国同盟締結当時の軍人・山本五十六の考えを、各種資料をもとに紐解いていく。

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対米戦争は引き返し不能に

 9月7日、ナチス・ドイツの特使ハインリヒ・シュターマーは、東京に到着し、千駄ヶ谷にあった松岡(編集部注:当時の外務大臣)の私邸で、オット駐日大使とともに連日会談を行った。重要なのは、11日に提示されたドイツ案で、その第三項は「右三国〔日独伊〕のうち一国が現在のヨーロッパ戦争または日支紛争に参入していない一国によって攻撃された場合には、あらゆる政治的、経済的および軍事的方法によって相互に援助すべきことを約束する」とされていた。この条項を認めれば、ソ連やイギリスのみならず、アメリカをも想定敵国とし、しかも自動参戦条項を含んだ、明々白々たる軍事同盟が成立するのである。

 このシュターマーが示した案に、及川海軍大臣は当初躊躇したが、海軍次官豊田貞次郎中将ならびに軍令部第三部長岡敬純少将と協議した松岡は、本文のほかに付属議定書と交換公文を設け、参戦の判断は各国政府が事実上自主的になすことにするという留保を付け、ついに同意を取り付けたのだった。

 松岡はさらに陸海軍と外務省の意見調整を進め、同13日の四相会議(総理、陸相、海相、外相で構成される意思決定機関)にかける。四相会議は、昭和天皇の臨席の下で御前会議を開き、三国軍事同盟を正式に決定すると取り決めた。14日朝には、その準備のために、大本営政府連絡会議が開かれた。この四相会議であったか、翌朝の連絡会議であったのかは確定できないが、及川古志郎海軍大臣は三国同盟に賛成したのである。

 もはや、三国同盟に向かう激流を止められるものはなかった。9月19日、御前会議は三国同盟締結を裁可する。以後、参戦を自主的に判断できるのかどうかについて、交渉が難航することもあったけれども(この問題は、シュターマーが、締約国はそれぞれに参戦するか否かを判断できると認めたことで打開された。それは、シュターマーが本国にはからず、独断で約束したものといわれる)、三国同盟は急速に具体化されていく。

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 1940年9月27日、日独伊三国の代表は、ベルリンの「新宰相府」の大広間において条約に調印、軍事同盟を結成した。日本は、対米戦争への「引き返し不能点」を越えたのである。