戦力整備は始まったばかりだった
その後、東京から戻った山本は、連合艦隊の幹部たちに、つぎのように語った。三国同盟やアメリカとの関係、日米戦争の見込みなどに関する、当時の山本の見解をよく示していると思われるので、長文になるが、以下に引用する。
「1年前、海軍当局は三国同盟に同意しなかった。その理由は、この同盟は必ず日米戦争を招来するものであり、その場合、海軍軍備の現状を以てしては勝算がない〔原文改行〕勝算を得るの途は唯一つ航空軍備の充実あるのみである。然し、それには年月を要する。それ故、日米戦を必至とするが如き条約を締結すべきでないとした。〔原文改行〕その後、僅か1年を経過したのみで、対米戦に自信のもてる軍備ができよう筈がない。然るに、現在の海軍当局は、敢て三国条約に同意しようとしている。自分は、現当局が果して勝算の立つ軍備を早急に整備する自信ありや否やを問うつもりで、詳細に資料も準備して、会議に臨んだのであった〔後略〕」(反町前掲書)。
ここで、山本は明快な論理を展開している。山本は、民間航空振興を通じての縦深的な航空戦力整備など、総力戦の準備に努めていた。時間はかかるが、そうした軍備の完成によって、アメリカと戦争になった場合にも成算が生じる。あるいは、そのような航空戦力が持つ抑止力ゆえに、対米戦争自体も回避されるかもしれない。そうした戦力整備がようやく緒に就いたばかりだというのに、アメリカと衝突するなど不可能であり、そのような事態につながりかねない独伊との同盟には断固反対すると、山本は考えていたのだ。太平洋戦争の大敗から70余年を経た今日では、当たり前と思われるかもしれないが、リアルタイムのそれとしては卓越した議論で、山本の政治、もしくは戦略次元での判断力を証明したものといえる。
航空戦力大増強の申し入れ
しかしながら、その山本が忌み嫌った日独伊三国同盟は、現実のものとなってしまった。
ちなみに、山本は、三国同盟成立後、戦闘機・中攻それぞれ1000機を保有するよう、中央に申し入れたといわれる。総力戦を考えれば、切実な要求であったが、当時の日本の生産力、搭乗員養成能力からすれば、実現できない目標であることはいうまでもない。ゆえに、敢えて無理な要求を突きつけることで、そうまでしてやりぬく覚悟が海軍中枢、ひいては政府にはあるのかと、山本は訴えたかったのだと推測する向きもある。ただし、筆者は、山本は必ずしも海軍上層部にブラフをかけたのではなく、本気で航空戦力の大増強をはかるつもりだったと考えている。三国同盟は、かかる本格的な戦争準備を必要とする困難な道を開いてしまったのであった。
これ以降、山本は、彼我の国力が懸隔するなか、自らの限られた兵力を以て、いかに闘うかを模索することを余儀なくされていくのである。