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半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる

 この1940年9月の上京に際して、山本はもう一つ、注目すべき発言をしている。近衛文麿首相に、その別荘「荻外荘」に招かれて、面談したときのことであった。日米戦争になったときの海軍の見通しについて、近衛に尋ねられた山本は、「それは是非やれと云われば、初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう、極力御努力を願いたい」との有名な答えを返したのである(近衛文麿『失はれし政治――近衛文麿公の手記』)。

 なんとも語弊のあるもの言いで、解釈によっては、山本が半年か1年の短期戦ならば充分にやれると断言しているようにも取れる。そうした観点から、山本を尊敬していた井上成美も、戦後、この発言を厳しく批判した。「山本さんは、何故あの時あんなことを言ったのか。軍事に素人で優柔不断の近衛公があれを聞けば、とにかく1年半は持つらしいと曖昧な気持になるのは決り切っていた。海軍は対米戦争やれません。やれば必ず負けます。それで連合艦隊司令長官の資格が無いと言われるなら私は辞めますと、何故はっきり言い切らなかったか」(阿川弘之『米内光政』)。

山本は短期戦での可能性をどう見ていたのか?

 いかにも井上らしい糾弾だが、本書でここまで検討してきたところからすれば、山本は実情を説明しただけであろうと筆者は解釈する。手持ちの戦力で短期の戦争を行うことは可能であるものの、長期の総力戦となれば、国力の差を克服することはできないとの本音を赤裸々に吐露したのである。近衛もまた、そのように受け取ったことは、山本の1940年12月10日付嶋田繁太郎(当時海軍大将で支那方面艦隊司令長官)宛書簡からも読み取れる。

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「其時近衛公曰く、『日独伊軍事同盟は、以前は海軍の立場からは種々困難ありとの事なりしに、此度は連絡会議にて海軍も直に同意せられ、実は不思議に思い居たり、然るに其後海軍の様子が少しはっきりせず、おかしいと思い居りしに、同盟成立後2週間目位に海軍次官が懇談に来られ、物動方面等容易ならぬ事を説明されたり。〔中略〕然し、海軍戦備には幾多の欠陥あり、万難を排し、速に之を整備せざれば、国防上憂慮すべき事となるとの説明ありたる為、自分は少なからず、実は失望せり』」(『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集』、第一巻)。

 かくのごとく、山本は、海軍の戦備の遅れを認識し、アメリカと長期にわたる総力戦に突入するようなことがあれば、それは必敗であると理解していた。近衛に対する発言に関しては、あらためて、その点を確認しておこう。しかし、筆者が注目するのは、むしろ「初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる」の部分である。かような言葉は、現有兵力による短期戦ならば、まったく不可能というわけではないと、山本が考えていたことを示唆しているからだ。この発想は、山本が太平洋戦争初期の戦略・作戦を検討する上で、重要な前提となっていたものと思われる。

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