『昭和史』や『日本のいちばん長い日』など、数々のベストセラーを遺した昭和史研究の第一人者・半藤一利さんは今年1月に90歳で亡くなられました。太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を、わかりやすく教えてくれた半藤さん。
開戦から80年の節目の年に、「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊『戦争というもの』(PHP研究所)より、一部を紹介します。(全2回の2回目/前編を読む)
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「特攻作戦を中止す。内地へ帰投すべし」
これをうけた駆逐艦は4隻のみです。その名を残しておきましょうか。雪風、初霜、冬月、涼月の4隻です。いい名前ですね。これらは作戦中止命令をうけると同時に、空襲のやんだ合間をぬって、海上に浮いている生存者の救助にかかり、大和の生き残りも、ほかの艦の生き残りも全員を、海上から救いあげました。もし伊藤の中止命令がなければ、そのまま沖縄へ突っ込んでいき、ほんとうに全滅するところでした。
大和の乗組員3332名のうち戦死は3056名。他の艦も合計すると、437名がこの特攻作戦で戦死しました。これは、8月15日までの飛行機の特攻隊の陸海合計の死者数4600余人に近い死者数でした。それもたった1日で。何ともいいようがありません。
伊藤は幕僚たちとの別れを終え長官室に入ると、内側から錠をおろしました。上からの命令に反するかのような意志決定によって、生き残った多くの部下たちを救い、みずからは生きようとしなかったのです。
もし伊藤の中止命令がなければ……と思うと、「武士道というは死ぬ事と見付けたり」という言葉がはたして日本人に何をもたらしたか、沈思せざるを得ないのです。
しかしーー捕虜にはなるな 西平英夫
昭和20年(1945)6月18日、沖縄ひめゆり学徒隊の隊長西平英夫のもとに、陸軍の野戦病院長より電報命令がとどけられました。沖縄攻防戦は最終段階を迎えたのです。陸軍の第32軍司令部は“時間稼ぎの戦闘はもうこれまで”と、覚悟をこの日に固めたのでしょう。
「学徒動員は本日をもって解散を命ずる。自今行動は自由たるべし」
沖縄第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒によって組織されているひめゆり部隊は、それまでに死者19名、ほか負傷者多数をだしていたのですが、なお約180名の隊員が残っていました。彼女らは学徒動員によって召集され、大田少将の電報に記されているように、看護婦として野戦病院で身を捧げて働いていたのです。