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76年目の「終戦」

2021/08/15

 そんな泰東丸の前に潜水艦が出現したのは、午前9時40分頃のことであった。場所は留萌小平町の沖西方約25キロの辺りである。甲板にいた乗客たちから、

「潜水艦だ!」

 との声が次々とあがった。

破壊されたボイラー、血で染まった甲板、乗客たちは海へ…

 すると、その潜水艦はすかさず泰東丸に向かって砲撃を開始。泰東丸の周囲に複数の水柱が立った。

 船長の貫井慶二は、すぐにエンジンの停止を機関室に命令。さらに、白いシーツやテーブルクロスを白旗として掲げ、船として戦う気がないことを明確に示した。特設砲艦である第二号新興丸とは異なり、泰東丸には13ミリ機銃が船首に一丁装備されているだけで、反撃する能力などは有していなかった。

 白旗を提示した船舶への攻撃は、国際法で禁じられている。しかも、戦争自体がすでに終結しているはずであった。

 しかし、潜水艦からの砲撃は継続された。そしてついに、一発の砲弾が泰東丸の船腹を直撃。船体は大きな衝撃に包まれ、破壊されたボイラーから蒸気が一挙に吹き上がった。

 その後、延べ十数発もの砲弾が泰東丸に撃ち込まれ、機銃掃射も行われた。まったく無抵抗の船への攻撃は一向に終わらなかった。

 貫井船長は「全員退船」の命令を発したが、甲板は人々の血潮で紅く染まった。乗客たちは意を決して海に飛び込んだ。潜水艦はやがて姿を消した。

襲撃したL-12、L-19と同時代のソ連潜水艦C56の魚雷発射室。ウラジオストクで潜水艦博物館として展示されている ©時事通信社

母親の目の前で力尽きた子供たち

 4人の子供の母親である鎌田翠は、母子5人で板切れに摑まって波間に浮いていた。しかし、力尽きた子供たちは1人、また1人と暗く冷たい海中へと消えていった。子供たちが抱えた恐怖、そして母親の無念はいかばかりだったであろう。

 泰東丸の船体は、右舷側に大きく傾斜。最後は横倒しになるようなかたちで、轟音とともに沈んでいった。沈没の際に生まれた激しい渦によって、船体の周囲にいた人々は引っ張り込まれるようにして運命をともにした。

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