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 船首に備えられていた機銃とその台座も漂流していたが、そこには十数名もの人々がしがみついていた。人々は胸まで海水に浸かりながら、立ち続けているような状態だった。

 その中に1人の憲兵がいた。その憲兵は背中に重傷を負い、別の人にずっと寄りかかっていた。しかし、やがてその憲兵は、

「もうこれ以上、迷惑はかけられない」

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 と言い残し、自ら手を放して暗い海中に沈んでいったという。

 その後、漂流する生存者たちを救出したのは、たまたま近くを通りかかった機雷敷設艇「石埼(いしざき)」だった。石埼の乗組員たちは、一人でも多くの人命を助けようと懸命の救助活動にあたった。

 泰東丸における犠牲者の数は、667名とされている。死亡率はほかの二船と比べても圧倒的に高い。

 船長の貫井もその1人であった。

泰東丸、第二新興丸がL-19に攻撃された小平沖(留萌管内小平町の望洋台から撮影) ©時事通信社

我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こた母親の遺体

 以上が留萌沖で起きた「三船殉難事件」の実態である。

 このような事件の発生を知った地元の漁師たちの中には、

「こんなことが許されてたまるか」

 とすぐに船を出して、漂流者の救助にあたった者たちもいた。自身が攻撃される危険も考えられたが、

(放っておけない)

 との思いからの行動だった。

 漁師たちは遺体の収容にも努めたが、それらの中には我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こしている母親の姿もあったという。

 これら三船の殉難事件により、じつに延べ約1700人もの人々が犠牲となった。

 改めて記すが、これは終戦後の話であり、しかも船はいずれも民間人を乗せた引揚船であった。

 事件発生の一報は、札幌の第五方面軍司令部にも伝えられた。第五方面軍司令官・樋口季一郎陸軍中将は、すぐさま事件の詳細に関する徹底的な調査を命令。さらに大本営に事件の発生を伝え、連合国側を通じてソ連に「戦闘停止」を求めるよう要請した。

 樋口からの要請を受けた大本営は、フィリピンのマッカーサー司令部に状況を伝えた。しかし、マッカーサー司令部からの返答はなかったとされる。