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「チビ選手、キム・ヨンギョンの運動感覚は並外れていました。速くて柔軟性がある。背を除いてすべてが完璧だったが、ご両親は彼女が(小学)6年生になった時バレーボールを諦めさせようとした。一般の生徒と体育特技生のどちらを選択するかで揺れていました。背の低いバレーボール選手として歩むことをご両親は心配していたのです」(スポーツ東亜、2014年8月19日) 

 キム選手の上の姉を見ていた監督は「(背は)大きくなる」と両親の背中を押し、キム選手は体育特技生として中学、高校へ進学。

 中学時代は控えの選手として守備の練習に明け暮れたが、高校に入ると背が20センチほど伸びて実力もぐんぐん上がり、アジアユース、世界ユース選手権に出場した。高校卒業後はプロチーム「興国生命ピンクスパイダーズ」にドラフト1位で入団。プロ入り1年目にしてMVPを獲得している。 

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21歳で日本へ移籍…日本での経験は「一生の宝に」

 当時すでにトップクラスの実力を誇ったキム選手は、21歳の時に韓国女子バレー選手としては初めてとなる海外行きを選択する。2009年、日本のプロチーム「JTマーヴェラス」へレンタル移籍したのだ。

 韓国での記者会見では、「わくわくもしますが、心配もしている」とその心境を明かしながら、日本のチームを選んだ理由について、「アジアで認められて欧州に行ければ未来が開けると思っている」と意欲をみせていた。そして、「世界的な選手、竹下佳江選手と一緒にプレイできる、JTマーヴェラスに行けてとてもうれしい」とも語っていた(ノーカットニュース、2009年5月18日)。 

 当時の日本女子バレーは世界ランキングでも韓国よりはるかに上で、韓国から来た選手を認められない雰囲気もあったと感じ、「最初はしんどかった」とも後に回想している(日曜新聞、2012年8月19日)。

 しかし、実力を発揮するようになるとチームにも馴染み、チーム25連勝の立役者となって、2年目にはMVPを獲得した。「JT時代は私の一生の宝」と話し、「(同じチームの)テンさん(竹下佳江元選手)から多くを学んだ」(Number、2012年7月6日)と語っていた。 

東京オリンピック・日韓戦でのキム・ヨンギョン選手 ©getty

 韓国では、その茶目っ気あるキャラクターも人気で、韓国のバラエティ番組などからも引っ張りだこだ。自身のYouTubeチャンネルも開設しており(「Bread Unnie」=食パンオンニ キム・ヨンギョン、登録者数108万名、2021年8月7日現在)、キム選手の素顔が見られると好評だ。

 ここで、気分がダウンした時に聴く曲として紹介したのが「百戦無敗」。これは20年前にリリースされてヒットしたラップ曲で、「振り返らずに駆けろ」「すべてを賭けて闘え 一度ぶつかってみろ」(Click-B「百戦無敗」より)など自身を慰め、鼓舞するような歌詞が綴られている。

 ベスト4進出後、キム選手が18歳だった頃からの主治医が自身のFacebookに2008年北京オリンピック前の手術について書き込み、話題になった。