目の前に座る小柄な女性は、ゆっくりと言った。
「みんな言わないだけで、たいていの人は波乱万丈なのかなと思います。誰しもが一つや二つ……人生ってそういうものかなって」
杉浦佳子(50)。東京パラリンピックの自転車競技で、メダル獲得が期待される選手の一人だ。
静岡県掛川市で生まれ育った杉浦は、薬剤師として、ある中堅薬局でばりばり働いていた。40歳を過ぎ、仕事は新たなステージに差しかかっていた。
「患者さんがいらっしゃる薬局ではなく、患者をつくらない、患者にさせない薬局をつくりたかったんです。私の薬局がある地域は健康寿命が長くなるような。そういう話を社長にして、すべて認めていただいて。いままでとは違う薬剤師の仕事をしていきたいと思っていたところでした」
レースの事故で生死の境をさまよった
トライアスロンが趣味だった。練習の一環として、45歳のとき、自転車ロードレース大会に参加した。杉浦はそこで事故に遭う。
目撃者から集めた情報によれば、下り坂でほかの選手と接触。ハンドルをとられ、前輪ロックの状態になって吹き飛んだ。おそらく時速は60kmほど。身長155cmの小さな体が受けた衝撃は大きく、脳挫傷や外傷性くも膜下出血のほか、複数箇所に粉砕骨折を負った。生死の境をさまよった。
意識が戻ったとき目に飛び込んできた光景は、はっきり覚えている。ICUから一般病棟に移る途中、エレベーターから出た瞬間に見えた白い壁。だが、その映像はすぐに途切れる。杉浦は言う。
「看護師さんに『何か本を貸してください』と言ったのが次の記憶です。それが何日目のことかもわからないですけど……。本ではなくて雑誌を持ってきてくれて。『あ、雑誌か』って思ったのは覚えてます」
漢字が読めない…下された診断は「高次脳機能障害」
ページを繰ると、異変に気づく。漢字がまったく読めなかったのだ。
言語や記憶に障害がある「高次脳機能障害」と診断された。当初は、家族の顔すら判別できず、薬剤師として培ってきた薬学の知識も消失していた。ロキソニンが何の薬かわからなかった。
失われたデータを、勉強によって取り戻す日々が始まった。小学生向けの足し算、引き算ドリル。絵本。会社の後輩が出してくれる薬クイズ。ばらばらに砕け散ったかけらを元の位置に戻すような作業だった。