日本のプロ野球に今も昔も欠かせない存在なのが助っ人外国人選手である。助っ人外国人選手の活躍次第で優勝争いに絡むこともある。活躍した選手、日本の野球に合わなかった選手、個性的だった選手。今回はそんな思い出に残る助っ人外国人選手を書いていこうと思う。
子供の頃、毎日試合中継を観ていたせいか昔の助っ人の方が印象は強い。巨人ファンの私だが、他球団にも好きな外国人選手はたくさんいた。阪神のバース選手は本当に凄かった。今でも新外国人選手を「バースの再来」なんて表現することがある。2年連続三冠王、歴代でも最強の助っ人だと思う。
三冠王と言えば阪急のブーマー選手も凄かった。身長2メートル、体重100キロの大きな体。本塁打も打つが、広角に打ち分ける器用な打撃が好きだった。高校生の時、友達と東京の立川駅近くのピザ食べ放題のお店に行ったら、ブーマー選手がいて興奮したのを覚えている。緊張して「握手してください」と言えなかった。せめてハイタッチだけでも……いや、そんなことしたら肩を脱臼していたかもしれない。
たぶんブーマー選手は西武戦で近くのホテルに泊まっていたのだろう。それにしても、そのお店は高校生の懐に優しい600円くらいの食べ放題だったのに、「あのブーマーがいる!」と驚きだった。
西武と言えば「オリエンタルエクスプレス」と言われた郭泰源投手も好きだった。最速158キロの速球にスライダー、シュート。まるで執筆活動もする芸人のようだ。
そう、本格派(本書く派)。
本当にその応援歌でいいの?
まだまだ他球団の好きな助っ人はいるが、そろそろ巨人の助っ人について書いていこう。私が巨人ファンになった頃の助っ人と言えば、レジー・スミス選手がいた。ヒゲ面のいかにも打ちそうな風貌も強烈だったが、一番印象に残っているのは応援歌だ。
「上から読んでもスミス 下から読んでもスミス どこから読んでもスミス レッツゴーレッツゴー スミス」
雑過ぎません?
「アーチを架けろ」とか「ここで1発」とか、バッティングの要素が全くない。当時子供だった私には覚えやすい歌詞だったが、いま改めて見るとビックリするほど適当な歌詞だ。しかも、この応援歌はその後、石井雅博選手に受け継がれた。
使い回された石井選手の当時の心境を聞いてみたい。きっと飲み会で嫌いな人から「お酌しろ!」と言われたような気分だったのではないだろうか?
「継(注)がなきゃダメ?」って。
衝撃的だったのは呂明賜選手。1988年クロマティ選手がケガをしたことで1軍に上がる。6月14日のヤクルト戦で初打席初本塁打。デビュー9試合で打率.333、7本塁打の大暴れ。「一体どれほどの成績を残すのだろう?」と期待が高まった。
しかし、その後は疲れや弱点を攻められたりして、最終的に打率.255、16本塁打に終わる。翌年はクロマティ選手の復帰や外国人枠の問題もあり、2軍暮らしが続いた。ちなみに2軍の成績は1988年、打率.387、12本塁打、1989年、打率.333、15本塁打、1990年、打率.323、10本塁打。ポテンシャルの高さは疑いようもなく、もし2年目以降も我慢強く起用していたら、どんな選手になっていたのか? と思ってしまう。
あの衝撃デビューは呂選手だけに、名刺(明賜)代わりだったのだろうか。
愛すべき、力を発揮できなかった人々
呂選手は輝きを放ったが、全く活躍できずに退団した助っ人も数多くいる。中でも1996年、右の長距離砲として期待されたジェフ・マント選手は10試合、打率.111、本塁打なしで4月23日に解雇された。当時の渡邉恒雄オーナーは「クスリとマントは逆さから読んだらダメ」と痛烈なコメントを残している。
1997年には、ロッテで活躍したエリック・ヒルマン投手が移籍してきた。しかし、左肩を故障し2試合の登板で終わる。「肩に小錦が乗ってるようだ」という迷言を残している。翌年の1998年は登板せず、5月30日に解雇。何とも残念だった。巨人でも内角を突く強気な投球が観たかった。
まさに、怯まん(ヒルマン)って。
2005年のダン・ミセリ投手は入団会見で「50セーブを目指したい」と言っていたが結局0勝2敗、防御率23.63で4月19日に解雇された。これは球団史上最速の解雇である。退団後、荷物をまとめ家族と浅草観光しているのがファンの反感を買った。「仲見世リ」の異名がついた。
仲見世通りは素敵なお店がたくさんあるが、ミセリはテンポ(店舗)のいい投球は観せられなかった。