1ページ目から読む
4/4ページ目

「お兄さんを撃たないで!」

 今井忠彦「旅路の涯 誘拐魔樋口の真相」は、毎日の記者だった著者が、捜査に当たった親しい警視庁の捜査員から聞いた話をまとめ、事件翌年の1947年に出版した冊子。樋口の心情に理解を示した事件読み物で、全てが事実とは思えないが、それによれば、身代金受け渡しに至る経過は次のようだった。

 清水家次女には「あなたは国際誘拐団に狙われている。国際秘密結社が少女を専門に誘拐して外国に連れて行く。僕があなたのご両親と相談してかくまうことにした。僕の妹ということにして、たぶん1年ぐらい、日本国中を旅して身を隠さねばならない」と声をかけた。その夜は千住大橋の下で野宿。それから茨城・水戸の母の疎開先で約1カ月を過ごし、横浜に出た。群馬・草津温泉にも行った。何も知らぬ次女は「兄さん兄さん」と言って信頼してくれ、楽しい日々だった。

 その後、青森から函館、苫小牧へ。樺太(サハリン)から引き揚げてきた兄妹だと名乗って人々の同情を買い、一宿一飯の恵みにあずかっていた。苫小牧では工場に2人で住み込み、次女は夜は勉強をした。

ADVERTISEMENT

 しかし、警察の臨検があり、そこからも逃亡。食べ物がない日もあり、樋口がどこからか手に入れてきたおにぎりを2人で分け合った。キツネの皮を利用する養狐場の家に住み込んだことも。安住の地はなく、石川県・金沢から京都へ。開拓農場で働いていたとき、警察官に対する傷害事件に遭遇したことで自分も犯罪人だと悟り、次女に「誘拐団もいなくなったから帰ってきていいと連絡があった」と伝えた。

「旅路の涯」は身代金の受け渡し日を9月9日としている。現金を持った母親とともに京都に入った警視庁刑事らは、京都府警察部と協力して、金を渡すのと同時に逮捕する作戦を練った。

 ところが、母親は一人で旅館を抜け出して指定場所の東本願寺へ。刑事が追いかけたが、現れた次女は母親から金を受け取ると、「お兄さんに渡してくる」と言っていったん去った。樋口に金を渡して母のところに引き返し、樋口を追おうとした刑事に「おじさん、お兄さんを撃たないで。堪忍してやってください」と叫んだ。

“共犯意識”と絞り込まれていく捜査網

 樋口の立場に近い見方だが、次女に樋口を恨む気持ちが薄かったのは確かなようだ。誘拐事件の容疑者と被害者といっても、半年間生活を共にしているうちに2人の間に一種の心情的なつながりか“共犯意識”が生まれたのかもしれない。いずれにせよ、この時点で事件の筋は読めたといえる。9月21日付毎日は「誘拐犯人は同一か 住友令嬢事件新發(発)展」と報じた。

 【鎌倉発】住友家長女の誘拐事件で鎌倉署捜査本部では、誘拐され6カ月ぶりに家に戻った清水厚氏長女(次女の誤り)が4年生当時、片瀬町南浜に住み、白百合高女付属校に通学。住友家長女と同じ級であったことが新たに判明。当局では捜査方針をここに重点を置き捜査を続けているが……。

 

 目撃者の言によると、住友家長女を誘拐した犯人は30歳ぐらい、カーキ色服、戦闘帽の一見復員軍人らしい男で、清水家長女を誘拐した誘拐した犯人は22歳ぐらい、戦闘帽をかぶった男。年齢こそ違えど、その風貌が相似しているところから同一犯人ではないかと慎重に取り調べている。

 同じ日付の朝日も「犯人の目星つく」と3段で報道。2つの事件の容疑者の人相が「全く同一らしく」「学校の帰途を狙った手口、家庭の内情を内偵し、計画的にやった点など、いよいよ同一犯人の仕業を確信、捜査陣はにわかに活況をみせている」とした。

 記事の末尾からは捜査網が既に絞り込まれていることが分かる。「犯人は京橋区月島に住所を持ち、岩間某あるいは樋口某(22)と自称する男で、現在は月島にはいないが、捜査線もとみに狭まってきた模様である」。

【続き】連続少女誘拐犯の手帳に書きつけられた「悲願千人斬り」…“少女の敵”が生まれた理由 

◆◆◆

 生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。

 ジャーナリスト・小池新による文春オンラインの人気連載がついに新書に。大幅な加筆で、大事件の数々がさらにあざやかに蘇ります。『戦前昭和の猟奇事件』(文春新書)は2021年6月18日発売。

戦前昭和の猟奇事件 (文春新書 1318)

小池 新

文藝春秋

2021年6月18日 発売