たった1個の松ぼっくりが子どもの感性を開く
大人都合の活動は子どもから貴重な時間を奪い、子どもの主体性の芽を摘んでしまいます。小さいうちから“能力”やらそんなものを求められて、提出した課題が上手かどうかみたいなところで“評価”される教育観に疑問を抱く親御さんが増えてきた。だからいま、森のようちえんが注目されているのではないでしょうか。
視察に来た方といっしょにおさんぽすると、「なんでこの道はこんなにすばらしいんですか?」と言われることがときどきあるんですが、特別な道じゃないんですよ。つまりいつもは見えていないものがそのときには見えただけ。目的地ばかり意識すると、目の前のものが見えなくなるでしょ。おさんぽの目的はその途中途中にあるんです。人生も同じでしょ。
こういう価値観を知らないで育った子どもたちは、「いつ終わるの?」「どこまで行くの?」とすぐ聞きますよ。でも、森のようちえんの子どもたちはどこまで歩くかなんて気にしない。時間なんて関係ない。途中を楽しむから。
おさんぽにしても何にしても、足下を見て、状況をとらえられるようになるためにやっているといえます。すなわち、「気がつく」ということ。これは何か。
子どもを森の中に連れて行っても最初は何も見えません。でも松ぼっくりを一つ見つけると、辺り一面に松ぼっくりがあることに気づく。そうなるともう松ぼっくりしか見えなくなる。アリやテントウムシの存在に気づくと、次から次へと小さなムシが目に飛び込んでくるようになります。見え方が変わってくる。この感覚です。
なのにこれまでの社会では、「必要なもの以外見なくていいよ」と子どもたちに教えてきた。「答えがあるものについては見なさい。答えがないものに関しては見なくていいんですよ」みたいな教育をしてきちゃった。
その結果、見えないひとが増えた。見えないものは存在しません。これが恐ろしい。遠くのものに思いをはせたり、推測したりしなくなる。インターネットを通じて膨大な情報が入ってくるのに、その背景に対する想像力が著しく欠ける。
与えられた情報を鵜吞みにするのではなく、自分の頭で考えて、推測して、判断する。そのための感性がたった一個の松ぼっくりやたった一匹のテントウムシから始まるんです。
似たような違和感をもっている親御さんが増えているから、森のようちえんが注目され始めたんだと思いますけれど、まだまだマイノリティーですよ。英語とかスポーツとか何かをできるようにさせてくれる能力主義的なわかりやすい幼児教育のほうが圧倒的にメジャーです。
森のようちえんでいろんなものが育つのは間違いないから、それは伝えたいんだけど、エビデンスと呼べるようなものはまだありません。エビデンスとして測れるようなものはそもそも本質的じゃないですし、だから非認知能力というんだろうけど、それがひとり歩きするのも困ります。「森の中でのびのび育てればグローバル社会で“勝ち組”になるための力が身につくんですよね?」とかね。
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