“20世紀最後の大物”とも言われるイギリス人歌手ジェイ・ケイによるユニット「ジャミロクワイ」。作品の売上枚数は3500万以上、グラミー賞を複数回受賞したアーティストと日本の札幌駅の意外な関係とは? 編集者・ライターの渡瀬基樹氏による新刊『迷宮駅を探索する』(星海社)の一部を抜粋。札幌駅誕生の経緯と、ジャミロクワイとの深イイ関係について解説していく。

1880年に誕生した札幌駅

 札幌駅の歴史は古く、1872年(明治5年)10月に開業した新橋~横浜間(品川~横浜間は6月に仮開業)、1874年(明治7年)に開通した大阪~神戸間(2年後に京都~大阪間を延伸)、1880年(明治13年)9月に開業した釡石鉄道(岩手県釡石市にあった鉱山鉄道。現存せず)に次ぐ、日本で第四の路線となる官営幌内鉄道(手宮~札幌間)の駅として、同年11月に開業した。

 2年後の1882年(明治15年)1月には本駅舎が完成し、路線も6月に江別、12月に幌内まで延伸され、炭鉱のある三笠(幌内)と港のある小樽(手宮)が結ばれた。

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札幌駅 ©iStock.com

 広大な敷地を確保するため、既存の市街地を避け、郊外の原野や雑木林、湿地などに建設されることが多かったターミナル駅だが、札幌は環境が大きく異なっていた。江戸時代は幕府や松前藩などが探索調査を行う場所にすぎず、1869年(明治2年)に明治政府によって札幌本府の建設が始まるまで、街らしい街など存在しなかった。

©『迷宮駅を探索する』(星海社)

 フリーハンドで条坊制(碁盤目状)の市街区域が描かれた札幌は、大通を中心に北側が官庁街、南側が商業地として設定された。1871年(明治4年)に薄野遊郭が作られ、1875年(明治8年)には屯田兵が入植。翌1876年(明治9年)には札幌学校が札幌農学校(現在の北海道大学)となり、官営の麦酒醸造所(サッポロビールの前身)も設置される。

 それでも人口は、1871年(明治4年)時点で624人、1882年(明治15年)でも9001人にすぎず、空いたスペースはいくらでもあった。北端付近とはいえ、札幌駅が碁盤目の中に作られたのは、こうした経緯がある。

 街の発展とともに駅舎は増築され、規模が大きくなっていった。火災に遭った二代目駅舎に代わり、1908年(明治41年)には三代目駅舎が完成。1952年(昭和27年)に南側へ移転した四代目駅舎が誕生し、1988年(昭和63年)には高架化とともに五代目駅舎へと切り替わって、現在に至っている。

 次第に札幌駅は、街全体に影響を与えていく。もともと札幌市街は、南北の中心が大通、東西の中心が創成川となるよう計画された。実際に大通は条、創成川は丁目と、住所表示の原点となっているのだが、市街地の中心は創成川からやや西側にずれて、西3丁目と西4丁目の間にある札幌駅前通となりつつある。

 同様に条坊制が採用されている京都でも、平安京の時代には朱雀大路(現在の千本通り付近)だったメインストリートが、現在では京都駅前を通る烏丸通りへと移っている。いずれも直下を地下鉄が通っているという共通点もあり、鉄道が街に与える影響力の強さを感じさせる。