上京した地方出身者の多くを悩ませる“迷宮駅”新宿。「ダンジョン」とも評されほど構造が複座な駅は、いったいどんな経緯で生まれたのか?編集者・ライターの渡瀬基樹氏による新刊『迷宮駅を探索する』(星海社)の一部を抜粋。江戸時代まで遡る新宿駅誕生の歴史背景に迫った。
日本橋から二里弱のところへ開設された「内藤新宿」
1885年(明治18年)3月に、東北本線と東海道本線を連絡するための路線が開業した。北関東や東北と、貿易港である横浜港との貨物輸送のため、東京市街地を迂回・通過するための路線で、赤羽駅と品川駅を結ぶことから品川線と呼ばれていた。
現在の埼京線の一部と山手線の西側区間にあたる。開業時に誕生したのが板橋駅と内藤新宿駅、渋谷駅の三駅だった。
江戸幕府が五街道を整備したとき、東海道の最初の宿場である品川宿は、起点の日本橋から二里(一里は三六町。約4km)、中山道の板橋宿は二里十八町、日光・奥州街道の千住宿は二里八町と近かったのに対し、甲州街道の高井戸宿は四里と離れていた。そのため、1699年(元禄12年)に日本橋から二里弱のところへ新たに開設されたのが、内藤新宿という新しい宿場だった。
内藤の名は、信濃高遠藩の内藤家に由来する。徳川家康に仕え、二代将軍秀忠の傅役も務めた内藤清成は、家康の関東移封の際に、四谷から代々木にかけての20万坪超を拝領した。内藤家の下屋敷として使用されていたこの土地の一部が、宿場の開設のために幕府へ返上された。残る部分は明治以降に、農業技術の改良を行う国の機関である内藤新宿試験場となり、現在では新宿御苑として憩いの場となっている。
かつての乗降客は「1日に50人程度」
新宿通りと外苑西通りが交わる四谷四丁目交差点付近に、かつて四谷大木戸という関所があった。ここから成木往還(現在の青梅街道)との分岐点である新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)まで、約1kmにわたって宿場が広がっていた。下町・仲町・上町に分けられた家並みは、現在の新宿一丁目・二丁目・三丁目の区分とほぼ一致する。
当時の宿場町には旅籠屋(宿泊施設)や茶屋(飲食店)だけでなく、岡場所(色町)も置かれて賑わっていた。風紀の乱れを問題視された内藤新宿は、徳川吉宗による享保の改革の一環として、宿場開設から20年弱の1718年(享保3年)にいったん廃止されるが、50年余り後の1772年(明和9年)に再開された。以降、幕末まで繁栄が続くこととなる。
内藤新宿の一角を除いて、明治初期の新宿エリアは閑散としていた。内藤家の下屋敷跡が農業の試験場となったのも、周辺が農地として活用されることを見越してのものだった。試験場では当時はハイカラな飲み物だった牛乳の生産、つまり牧畜も行われ、1888年(明治21年)には現在の新宿二丁目に耕牧舎という牛乳販売会社の牧場も開かれている。耕牧舎の創業者は渋沢栄一で、一時は芥川龍之介の父が経営していた。
宿場の西側は、江戸期は武家地だったものの、明治維新によって大名や旗本が本拠へ帰ったことで一気に空洞化。雑木林が広がっていた。町外れの牧歌的な荒地は、鉄道路線と駅の建設にはうってつけだった。
1885年(明治18年)、賑わう内藤新宿から西へ約2km離れた青梅街道沿いに内藤新宿駅は建設された。貨物輸送が主体で、旅客列車はわずか1日3往復。小さな蒸気機関車に2両編成の客車が牽かれ、乗降客は1日に50人程度だったという。1887年(明治年)に駅名は「新宿駅」に改称される。