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 ベンチ裏のコンクリートの通路で、坂井を待っていた。頭にはずっと、前の晩に落合が口にした言葉があった。

 チームが敗れたにもかかわらず、球団社長がガッツポーズをした──その噂は確かに存在したが、目撃者は定かではなかった。

『バッティングピッチャーの◯◯が見たらしい』

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『◯◯テレビの◯◯が見たようだ』

 噂の中で名前が挙がった人物に当たってみても、ことごとく「自分も伝聞で知ったのだ」という。私は確証を得られずにいた。

 ただ、その噂がチームに火をつけたのだと落合が語った以上は、紙面には去りゆく指揮官の手記として掲載される。私はその前に、坂井に事実を確認しておく必要があった。

©文藝春秋

「そんなこと……するはずがないでしょう……」

 プレーボールの1時間前、坂井はいつも通りの時刻に球場へやってきた。蛍光灯が冷たく光るバックヤードの通路を、ほとんど靴音を響かせることなく歩いてきた。

「折り入って訊きたいことがあります」

 そう告げると、坂井は意外そうな顔をして立ち止まった。

「何でしょうか?」

 静かな細い声だった。

 前社長の西川順之助は、大柄で厚みのある体格にふさわしい鷹揚な雰囲気を醸していたが、華奢な輪郭の坂井は日々顔を合わせる番記者相手にも敬語を崩さず、どこか繊細な印象を与えた。

 坂井の右手には紙パックの烏龍茶が握られていた。球場内の自動販売機で買ったものだろうか。チームのロッカーに行けば、飲料水は山と積まれているはずだが、坂井はむやみに現場に立ち入ることをせず、一線を引いているように見えた。

 私は単刀直入に、落合が口にしたことを伝えた。そして訊いた。噂は事実なのか──。

 坂井は立ったまま絶句した。

 しばらく間を置いてから、柳の揺れるような声を震わせた。

「そんなこと……するはずがないでしょう……」

 そう言った瞬間、右手にあった紙パックが潰れ、中から黒褐色の液体が飛び出した。坂井は拳を握ったようだった。私にはそれが動揺のためなのか、怒りのためなのか、それとも別の理由なのか、わからなかった。

「そんなことを……するはずがない」

 坂井は内ポケットから取り出したハンカチでスーツに飛んだ水滴を拭きながら、震える声でもう一度、私と自分にはっきりと聞かせるように言った。

 通路の蛍光灯に照らし出されたその表情が蒼白く見えた。

「そうとしか、言いようがありません」

 いくらか平静を取り戻した坂井はぽつりと呟くと、背を向けて歩き出した。

 私には坂井が嘘を言っているようには見えなかった。ただ、何かを怖れているのかもしれないとは感じた。その対象は、落合という人間の得体の知れなさなのか、それとも指揮官の退任を境にした劇的なチームの変化なのか。

 去っていく坂井の後ろ姿を見ながら、私はそんなことを考えていた。

【前編を読む】《アライバ・コンビ》「あの人と同じことはできない」抱え続けた“井端への劣等感”…荒木雅博を解放した落合博満からの“意外な言葉”とは

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