京セラドーム全体に起こった大拍手
2021年11月22日、日本シリーズ第2戦。スタメン発表。
「9番 ライトフィールダー 坂口智隆」
京セラドームにその名前が響き渡った瞬間、レフトスタンドだけでなくライトスタンド、いや、球場全体から拍手が起こりました。
NPBの現役では唯一人となった最後の近鉄戦士。
オリックスとの球団合併という激動のあの時代を乗り越えてきた男。
2002年のヤクルトスワローズのドラフト1位。のちに野手に転向するとスワローズをリーグ優勝に導く大活躍。ファンの皆に愛され、惜しまれつつも今年で現役を引退した高井雄平(雄平)さん。
その東北高の高井雄平を抽選で外した大阪近鉄バファローズが1位で指名したのが、当時神戸国際大附属高校3年の坂口智隆でした。
高校時代、坂口智隆と勝負できていたかも
僭越ながら、ここからは少し僕の話を交えながら書かせてもらいます。
僕は8歳の時に神戸北リトルリーグに入り、そこから高校3年までの10年間を野球とともに過ごしてきました。
関西学院高等部3年、兵庫県大会で決勝まで進むも、あの栗山巧を擁する育英高校に0-11で敗れた2000年のあの夏の日、僕の野球生活は終わりを告げました。
その9年後に後輩達がその育英高校に4-1で勝利し、70年ぶりの甲子園を決めてくれた時は涙が止まりませんでした。
今年の夏は決勝まで進むも、ここ10年で2度の優勝をしている神戸国際大附属高校に3-7と力負けし、12年ぶりの甲子園出場を逃しました。
思い返してみると、僕達が決勝に進んだ2000年の「事実上の決勝戦」だったのは、準決勝の育英高校対神戸国際大附属高校でした。
抽選でその2校が潰し合いになったのを知り、部員の皆で喜んだのを覚えています。
栗山巧擁する育英高校と、彼の1学年後輩で神戸ドラゴンズ時代にはチームメイトであった坂口智隆擁する神戸国際大附属高校の対決は、9-3で育英高校が勝利。
この年の育英は甲子園でもベスト4まで進むほど強かった。
神戸国際高が強豪校となる礎を築いた坂口
その悔しさをバネに、直後の秋の大会から背番号1をつけた当時高校1年生の坂口智隆は、翌年の春のセンバツ初出場に大きく貢献。学校はその後2014年に夏の甲子園に初出場を果たし、神戸国際が県内屈指の強豪校になっていく礎を築きました。
あの時もし神戸国際が育英に勝っていたら僕は決勝戦のあの日、坂口智隆と同じグラウンドで真剣勝負ができていたかもしれない。
スコアも1-7ぐらいだったかもしれない。
2015年に坂口智隆がオリックスからヤクルトに移籍してきた時、そんな想いが頭の中を駆け巡りました。
野球を始めた8歳の頃から今に至るまで、ヤクルトスワローズを一筋で応援してきましたが、実は1度だけ他球団に浮気をしかけた事があります。
78勝のうち41勝が逆転勝利、大阪近鉄バファローズのカッコよさ
それは2001年、「いてまえ打線」でパ・リーグ優勝を果たした大阪近鉄バファローズ。
78勝のうち41勝が逆転勝利。
チーム防御率はリーグ最下位の4.98ながら、チーム打率.280、1332安打、211本塁打、748打点、770得点、といずれもリーグ1位の超強力打線でカバーする、野性味あふれる野球。
カッコいい応援歌。
そして、あの北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン。
観客動員数は球団創設史上最高の159万人を記録。
2001年9月24日、松坂大輔からライトスタンドに王貞治に並ぶシーズン55号を弾丸ライナーで叩き込んだタフィ・ローズ。1点ビハインドの9回裏、中村紀洋の劇的な逆転サヨナラ2ランでマジックを1にしたあの試合。
レフト上段席で見ていて全身の鳥肌がしばらく収まらなかったのを、昨日の事のように覚えています。
もしあの年の日本シリーズ対戦チームがヤクルトじゃなかったら、間違いなく僕は近鉄ファンになっていたでしょう。
あのいてまえ打線を封じた古田敦也率いるヤクルト投手陣、めちゃくちゃカッコよかったですもん。