宿場町、城下町として歩んできた「掛川」
ともあれ、そんな掛川駅の北口駅舎は、掛川市の玄関口だ。掛川市は中世以来の東海道の宿場町。織田信長の時代には家康が治めていたが、秀吉が北条氏を滅ぼした小田原合戦後に家康が江戸に移されると替わって入ったのが“功名が辻”でおなじみの山内一豊。大河ドラマで上川隆也と仲間由紀恵が主演したアレだ。
山内一豊は関ケ原の戦いの功で戦後土佐一国の大大名に出世し、掛川には家康の親族である久松松平氏が入る。その後は譜代の大名が入れ替わり立ち替わり治める藩となって幕末まで続いている。つまり掛川は宿場町であり、そして城下町として発展した歴史を持つ町というわけだ。いまも駅前の道をまっすぐ歩いた先には掛川城が控えている。
駅前からまっすぐ掛川城に向かって続く道は、掛川駅の開業時に設けられた。いわゆる“停車場道”“停車場通り”などと呼ばれる類いのもので、駅と少し離れた旧来からの市街地とを連絡する役割を持つ。古い駅ならばだいたいどこででも見かけることのできる大通りのひとつだ。
歴史的にはこの道沿いに旅館ができたり旅人をもてなす飲食店ができたり、戦後になるとちょっとした歓楽街ができたりして新たな市街地を形成していった。それを横目に歩いて行くと、掛川の城下町の旧市街に出る。歩道に屋根が架けられて商店街のようになっている東西の道が旧東海道だ。
古いタイプの商店がいくつもあって、旅人の立場では味わい深さを感じてしまう。が、実際には地元ではこうした商店街の新陳代謝は活性化にあたってのひとつの課題なのだろう。この商店街からさらに北に進むと逆川という小さな川を渡り、掛川城に着く。
駅前で見つけた「気になるもの」
そんな宿場町&城下町・掛川の玄関口の駅前で、気になるものを見つけた。薪を背負って歩きながら読書に励むあの人の像。そう、いまや学校の校庭でもあまり見かけなくなった二宮尊徳の像である。
二宮尊徳といえば、百姓の子に生まれて貧困の中でも学問を修め、長じて農村復興に大きな功績を残した江戸時代後期の農政家。尊徳の教えは「報徳思想」として体系化され、明治以降も広く盛んになった。詳しいことは知らないが、あちこちの小学校の校庭に薪を背負って読書する二宮さんの像が建てられたのも、そうした報徳思想に基づいたものなのだろう。
掛川駅前に二宮尊徳の像があるのは、この報徳思想の中心を担う大日本報徳社の本社が掛川にあるからだ。掛川城に隣接してすぐ北東、明治時代の建物や正門が今も残っている古風な建物群の一角がそれだ。
大日本報徳社は、二宮尊徳の弟子のひとりであった岡田佐平治によって1875年に遠江国報徳社として設立。佐平治の息子の岡田良一郎の時代に大日本報徳社となって、以降広まって報徳思想の中心となった。
ちなみに岡田良一郎の子でともに大日本報徳社の社長を務めたのが岡田良平や一木喜徳郎。どちらも文部大臣などをしているので、聞いたことがある人もいるかもしれない。