(降格人事は)とても請けられない/伊藤博文(政治家)
1841年~1909年。長州藩出身の政治家。内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣となる。その後も枢密院議長などになり、大日本帝国憲法発布に尽力するなど日本の近代化に大きく貢献。のち初代韓国統監となったが、ハルビンで暗殺された。
初代内閣総理大臣になったことでも知られる伊藤博文は、長州藩(山口県)出身。若い頃は松下村塾で吉田松陰の教えを受け、幕末の志士として倒幕に尽力していた。
伊藤が他の志士たちと違っていたことといえば、22歳の時に藩命でイギリスへと留学していたこと。江戸幕府が健在であった時代に、海外を自分の目で見た経験がある者は非常に少ない。この経験はのちのち伊藤の武器ともなる。
やがて江戸幕府が倒れ、明治新政府が動き出す。その中心にいたのは、岩倉具視、三条実美などの公家と、薩摩藩出身の西郷隆盛や大久保利通、長州藩出身の木戸孝允らであった。彼らと比べると若い伊藤は、政府の中枢とまではいえないものの兵庫県知事、大蔵少輔(しょうゆう)などの重職を担った。
とはいえ、日本の政治の中心にいたわけではない。江戸時代にあった「藩」をなくし、新たに「県」などを設け中央集権制を確立する「廃藩置県」などの大改革は、伊藤が大阪で別の仕事をしている時に断行された。つまり、これらの大改革に、伊藤は直接絡んでいないということになる。
明治の世となり生まれ変わった日本を、若い頃に見て学んだ欧米の国々のようにしたい。そんな思いが誰よりも強い伊藤にとって、自分が改革の中心にいられないという現実を目のあたりにしたことは、相当悔しかったに違いない。
しかも、その直後、伊藤は「租税頭(そぜいのかみ)」に任じられる。決して軽い職ではないが、これまでの大蔵少輔から比べれば、格下げ人事といってよい。
伊藤は、長州藩の先輩である木戸に
「とても請けられない(降格などイヤです)」
と、愚痴を綴った手紙を送ったが、人事がくつがえされることはなかった。
実は、この頃、政府内部では外国通の伊藤らが急進的な改革を求めすぎるため、少々煙たがられていたようなのだ。なにせ頼りにしていた木戸までが
「(伊藤は)彼(かの)遠(とおく)を知って、いまだ皇国の有様(ありさま)を詳(つまびらか)にせず」
と日記に記している。つまり、「外国事情には詳しいかもしれないが、日本の状況がわかっていない」「理想ばかり先走りして現実を踏まえていない」というのだ。このように若き伊藤には、政府内で思うように活動できず、愚痴をいっていた時代があったのである。
ところが、それから6、7年ののちに西郷、大久保、木戸が相次いで命を落とす。ついに伊藤が政治の中心に躍り出る時が来たのだ。その後、内閣制度を確立し、初代首相にもなった。まだ44歳。以降の歴史を見ても最年少の首相だ。
苦難の時を経て、以後20年以上、政界のトップの座に君臨したのである。