誰にとっても、人生は順風満帆なことばかりではない。それだけに、愚痴を吐いてその場をやり過ごすしかないことも数多くあるだろう。歴史に名を刻む偉人たちであろうと、それはかわりない。

 その証拠に、歴史・文学研究家の福田智弘氏による『人間愚痴大全』(小学館集英社プロダクション)には、偉人たちの大小様々な不平不満が数多く収録されている。ここでは同書の一部を抜粋。有名政治家たちが思わずこぼしてしまった衝撃的な愚痴を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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これは幕府はとても駄目だ/勝海舟(政治家)

 1823年~1899年。幕臣、政治家。本名、義邦(よしくに)、通称、麟太郎(りんたろう)。有名な「海舟」は号。蘭学などを学び、幕府海軍の創設等に尽力して軍艦奉行などを歴任。明治維新後も参議、海軍卿などに就任している。坂本龍馬の師としても知られている。

 1860年1月、1隻の船が品川港を出港。一路アメリカ大陸を目指した。

 船の名は「咸臨丸(かんりんまる)」。蒸気機関と帆を併せ持つ機帆船で、日本人の運航による初の太平洋横断を目指していた。艦長は、幕臣・勝海舟である。

 勝海舟は、本来なら幕府を代表し艦長として太平洋を渡るような偉い身分に生まれた人間ではない。武士は武士だが下級幕臣の出で、子どもの頃から貧乏生活を送ってきた。生家は

「餅を搗(つ)く銭がなかった」

 と、後年回想しているくらいである。所帯を持っても、貧乏生活は続いた。人一倍学問には熱心だったが、書物を買う金すらなかった勝は、ひたすら本屋で立ち読みして知識を得たという。

 しかし、江戸の町にはまだ人情があった。本来なら立ち読みばかりされて迷惑がるはずの本屋の主人は、むしろ彼を親切に扱った。熱心さを買い、支援を申し出る金持ちたちもいた。下町の人情に助けられ、海舟は貧しいが、西洋事情に詳しい一角の人物となっていった。

 やがて幕府が海軍伝習所を開くと、そこで学んで日本随一の「海軍通」となり、咸臨丸の艦長にまで出世することとなったのである。

 さて、無事に太平洋横断を果たした咸臨丸が帰国の途に就き、浦賀港に入港すると、いち早く船中に押し寄せてきたのは、快挙を称える人たちではなかった。幕府の捕吏、今でいえば警察官である。

「無礼者め、何をするのだ」

 と問えば、捕吏はこういった。

「数日前、井伊大老が桜田(門外)で殺された」

 犯人は水戸藩出身者なので、水戸藩の人間が船中にいないか捜査に来た、というわけだ。無論、咸臨丸に怪しい者は乗っていなかったから、捕吏の取り調べもとくになく、その場は終わった。

 その時、勝は初めて井伊直弼の暗殺を知ったという。幕府のトップが一介のテロリストに暗殺されてしまったのだ。

「これは幕府はとても駄目だ」

 とその時、勝は思ったそうだ。しかし、それでも勝は、その後も幕府海軍の強化などに懸命に尽くしている。

 ところが、勝の予感通り、桜門外の変以後、反幕府派は勢いを増し、わずか7年で幕府は崩壊した。その後、旧幕府(徳川家)の息の根を止めんと、新政府軍が江戸へと進軍してきた時、新政府軍を率いる西郷隆盛と面談して江戸での戦乱を未然に防いだのも、勝であった。

 ひょっとすると、「幕府はもう駄目」だと認識してからの勝は、幕府のために尽くしたのではなく、その先を見ていたのかもしれない。幕府も、反幕府派もない。新しい「日本」のために、力を尽くしていたのかもしれない。