もういい加減にせぬか/木戸孝允(政治家)
1833年~1877年。長州藩士。兵学等を吉田松陰に、剣術を剣豪斎藤弥九郎に、洋式兵術を江川太郎左衛門に学ぶなどして文武両道で名を成す。のちに薩長同盟を締結して倒幕で活躍。明治新政府でも参与となり、その中枢として活躍した。
木戸孝允(桂小五郎)は、幕末維新期に活躍した武士であり政治家だ。西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれている。しかも、残された肖像画を見てみると、洋装、和装どちらも似合っていて、なかなかのイケメンだ。一方、剣術の達人でもあり、のちに「五カ条の御誓文」起草に関わったことからもわかるように文筆も達者である。幸運の女神にえこひいきされているかのようにも思えるのだが、実は彼の人生、それほど幸運に恵まれていたわけではなかった。
彼の属していた長州藩は、幕末の世にあって尊王攘夷、反幕府の中心的役割を担っていた。しかし、1863年、八月十八日の政変が起こり、長州藩士らは京を追われることになる。それでも、木戸は以後も密かに京都に潜伏し、復権の機会を探り続けた。
その間、何度も命の危険にさらされ、幕府側の人間に捕縛されそうにもなった。浮浪者同然の姿になって橋の下に隠れていたこともあったという。
しかも木戸は、保守的な藩の上層部と過激な志士たちの間に入り、調整役を果たしてもいた。つらい仕事である。
その後、藩内では反対意見がある中、薩摩藩と薩長同盟を締結。これが契機となって、薩長ら新政府軍は倒幕を果たす。念願の明治政府ができ、木戸はその中枢を担うこととなる。
こうして、これまでの苦労が一気に払しょくされるかに思えた。しかし、木戸の苦労はまだまだ続いたのである。
急造の明治政府内では、意見の対立もあり、なかなか思うようには仕事が進まなかった。1873年には外交方針の対立から板垣退助、江藤新平、西郷隆盛らが下野。その後、板垣らは国会を開設するよう要求し、江藤新平らは反政府の兵を挙げた。問題山積みの中、政府内では大久保利通らと対立し、木戸は一時政権を離れてもいる。
その後、伊藤博文らの仲介もあり、政府に復帰するのだが、その頃から、徐々に健康状態が悪化していく。政権内では、大久保利通が独裁体制を築きはじめ、木戸は徐々に孤立しはじめる。
その時、驚くべき一報が入る。一緒に薩長同盟を締結した仲間であった西郷隆盛が、鹿児島で反政府の兵を挙げたのだ。西南戦争である。病床でその行方を見守っていた木戸は、弱まる意識の中、
「おい、西郷、もういい加減にせぬか」
と語ったという。一説によれば、これが最後の言葉だったともされる。
これは、もちろん反乱を起こした西郷に対する言葉である。しかし、木戸の人生を振り返りながら読み返すと、まるで、振り払っても振り払っても、次々に巻き起こってくるさまざまな困難に対していい放った言葉のようにも思えてくる。