2000年10月初めに退院、下旬からは提供してくれる病院で丸山ワクチンの投与を週3回受けることにした。その帰りに喫茶店に寄ってコーヒーを注文するのだが、飲み込むときの激痛を思うと飲めない。なぜか少しずつなら飲めた牛乳500ミリリットルだけが1日の栄養摂取源で、健康時には身長165センチ体重55キロだったのが、40キロまで激減していた。
2001年1月4日、田山はパチンコに行った。やはり「パチプロ日記」の材料を集めるためであった。1月22日、書きあげた原稿を喫茶店で手渡した。しかし、いつものような飲み会にはならず、「日記」も、田山が編集者たちと会うのもこのときが最後になった。
「いつ死ぬか」と書いたメモ
2月21日午前、田山母子のマンションから遠くないところに住む末井昭は自転車で用足しに出かけ、もしかしたら田山に会えるかもと思い、マンション前まで行ってみた。するとまったく偶然、出かけようとする田山と出くわした。
「みんな会いたがっているから」
末井がそういうと、田山は首を振り、鞄から取り出したメモ用紙に「いつ死ぬか」と大きな字で書いてしめした。気圧された末井は、「お大事に」と社交辞令めいた言葉を発するしかなかった。
それが別れとなった。
未完の「パチプロ日記」
2001年7月5日朝、田山の母から末井に電話があり、前日に田山が亡くなったことを告げた。
54歳であった。7月末、母親から田山の書きかけの原稿が出てきたと連絡があった。それは「パチプロ日記」続編の未完の原稿であった。
〈50を越え、しかも年々パチプロらしからぬ存在と化して行く自分を知りながら、「パチプロ日記」を書いているという、この矛盾、この罪悪感〉
原稿はここで終っていた。
パチンコ産業の総売上げは1996年以降徐々に下落、2018年にはピークの6割、18兆円となった。賭博性の高さからフリの客が離れたためだろう。96年にやはりピークであった出版産業の売上げも着実に下降、2018年には約1兆3000億円、パチンコの14分の1にまで落ちた。
【後編を読む】《ナンシー関没後19年》「約束を果たさないまま、逝ったのが心残りだったんだと思います」稀代のコラムニストの知られざる“晩年”