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「月収はせいぜい20万」「絶対に仕事なんかじゃない」東大中退のパチプロが明かすギャンブラーの“生活実態”とその“最期”

『人間晩年図巻』より #1

2021/12/01

「パチンコは絶対に仕事じゃない」

 終戦直後に発祥したパチンコは、釘とチャッカー(穴)の配置の新考案「正村(まさむら)ゲージ」によってゲームとしての妙味が増した。やがて、1個の玉が入賞すると2個目は簡単に入る「チューリップ」が発明され、大衆娯楽として定着した。

 田山がパチンコを初めてしてみたのは東大1年生の1966年秋、チューリップ全盛期であった。客は台に向かって立ったまま左手で玉を1個ずつ入れ、右手のハンドルではじく。当時のパチンコ台には上皿がなく、当たり玉は台下の玉受けに直接出てきた。左利きの田山はハンドルの微妙な力加減にとまどったが、じきに慣れた。

 そのうち玉受けの上皿がついて自動的に玉が台に送り込まれるようになり、客は着席したまま遊ぶスタイルに変わった。ハンドルは、ただ握ってさえいれば自動的に玉を打ち出す電動ダイヤルに移行した。セブン機と呼ばれるルーレット式の台が市場に出たのは1980年、当たりのチャッカーに入るとハネが開閉を繰り返して当たり玉を呼び込むチューリップ改良版「ハネモノ」の登場は81年であった。

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 80年代以降、IC基盤の進化によってパチンコ台はルーレット式が主流となった。ルーレット上の絵が揃うと大量の玉を吐き出す。そのうえ「連荘(れんちゃん)」といって大当たりの連続が期待できる。しかし当たりが長く来なければ、持ち玉は台に「飲まれる」。このときパチンコは娯楽からギャンブルに変わった。

「月収はせいぜい20万」

 大当たりの可能性が生じた絵柄を「リーチ」といい、そこから大当たりまで長いドラマめいた映像が音声付きで流れるようになったのは90年代以降である。パチンコ人気は異常な高まりを見せ、総務庁(当時)調査によると1996年のパチンコ産業総売上げ高は30兆円、なんとGDPの6パーセントにも上った。この年、出版物の売上げもピークだったが、それはパチンコの11分の1に過ぎなかった。当然ギャンブル依存症患者も急増した。3万円を全部突っ込んで失うか、ときに5万円を手にするかという規模の賭博で、牧歌時代のパチンコとは質が違って生活資金を散じる人も少なくなかった。「ハネモノ」を好んだ田山だが、賭博性の低いそれが消えて行けばルーレット式の台への移動を余儀なくされた。

『パチプロ泡沫記』で田山は、「月収はせいぜい20万」「1日にせいぜい3、4時間しか打たない」といっている。

「では7、8時間打てば収入が倍増するかといえば、そうはいかない。30万が精一杯だろう。男1匹が生活して行くのに、30万もの大金はいらない」