文春オンライン

「月収はせいぜい20万」「絶対に仕事なんかじゃない」東大中退のパチプロが明かすギャンブラーの“生活実態”とその“最期”

『人間晩年図巻』より #1

2021/12/01

 用賀に越しても、しばらくは電車を乗り継いで池袋に通った。しかし「通勤」の負担に耐えかね、東急田園都市線沿線、多摩川を越えた溝の口の店に「棲み変えた」。95年にその店が区画整理で閉店すると、今度はおなじ線の渋谷寄り、桜新町のパチンコ店、さらにずっと郊外の青葉台の店へと移り、97年に地元用賀の店に定着した。

「時効寸前」で舌がん再発

 田山幸憲が舌に異変を感じたのは48歳の1995年秋であった。最初は口内炎かタバコの吸い過ぎだろうと思っていた。しかしいっこうに回復せず、歯に舌があたると「飛び上がらんばかりに痛む」。病院で舌がんと診断されて3ヵ月入院、手術を2回受けた。

 96年1月に退院、再び「日記」を中心にまわるパチプロの生活に戻った。

ADVERTISEMENT

 2000年4月下旬、耳の痛みがはげしいので病院に行き、生検を受けた。5月、舌がんの再発を告げられた。耳の痛みはリンパ節転移のせいであった。術後5年が無事に経過すれば寛解とされるはずだったが田山の場合は4年4ヵ月、「時効寸前で捕まった犯人のような気持」だった。

 田山は医師にいった。「手術を受けるぐらいならば、残りの人生を放棄する方がましです」

 2回の手術の侵襲がよほどひどかったのだろう。

 結局、放射線と抗がん剤での治療を行うことになった。東大医学部附属病院の分院に入院して治療中の6月下旬、CTスキャンで首に2ヵ所、鼻のあたりの1ヵ所に転移が認められた。

©iStock.com

病は着実に進行し…

 東大病院本院に移ることが決まって一時退院した。末井昭や編集者たち、パチプロ仲間と会って宴会をし、東京近郊の山にハイキングに行った。田山は周囲に愛される人だった。

 8月初旬、本院入院。ただし、治療は週に5日なので、金曜日から日曜日までは外泊が許された。その間、パチンコに行き、焼酎の薄い水割りを飲んでみたりした。パチンコに行ったのは「パチプロ日記」の材料を得るためである。この時期の田山は、モルヒネを主成分とした痛み止めのほか、アガリクスやプロポリスなど、がんに有効といわれるものを多数服用していた。

 しかし病は着実に進行する。放射線治療で口の中が焼けただれたようになり、食べることはむろん、口から水分をとることもできなくなった。その後は鎖骨のあたりにCVカテーテル用のポートをつけて水分と栄養を補給した。