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「月収はせいぜい20万」「絶対に仕事なんかじゃない」東大中退のパチプロが明かすギャンブラーの“生活実態”とその“最期”

『人間晩年図巻』より #1

2021/12/01
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書くことが生活のリズムをつくり、気持の救いに

 パチンコは「労働」ではない。しかし勤勉さがないと勝てない。10時開店の店に毎日9時57分に着いて、よさそうな台を仮押さえしたあと、自分が好む種類のパチンコ台がある区画(シマ)の一群だけ釘を見る。それも前日と変わっているかどうかだけを見る。釘に変わりがなければおなじ台を何日でも打ちつづける。朝一番から打ち始めて午後3時頃には切り上げる。勝った玉を換金、まだ明るいうちに焼鳥屋に入って飲む。酒は20代から1日も欠かしたことがない。

『パチプロ日記 X』(第10巻の意、2001年)を見ると、1日の勝ち分はだいたい数千円から2万円程度、6万円あまりを2日つづけて勝ったりもするが、10回に1回は負ける。2万円から3万円ほど負けるときもある。

 50歳で筆を擱(お)こうと思っていた「パチプロ日記」だが、のちにはその原稿を書くことが生活のリズムをつくり、気持の救いにもなっていると実感するようになる。また原稿を高田馬場の編集部に届けたあとの恒例となった飲み会が、「社会との接触」という意味で田山にとって重要であった。

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 その日のパチンコの打ち方(立ち回り)と成績以外に、こんなことも「日記」に書いた。

店を転々とし、97年に地元用賀の店に定着

「誰が何といってもパチンコは遊びなんだ。絶対に仕事なんかじゃないよ」「常人より当たる確率の高いギャンブルをやっているだけ」

 パチプロ、とくに田山のような「ジグマ(編集部注:複数のホールを回らず、1店舗のみの稼働で収入を得るパチプロの俗称)」は、ありていにいってその店に寄生しているわけだが、玉を出しているお客がいることは、店としてもフリの客へのにぎやかしになる。しかし確実に利益の一部を奪われてもいる。プロ側も店に黙認してもらえる程度の勝ち方と遊戯のマナーは気にする。要するに微妙な関係である。そんな田山は、ときにやむを得ず店を変えた。池袋西口の店から一時、地元要町の店に移ったのはパチプロ集団が店に巣くって空気が悪くなったためだが、末井昭(編集部注:現・白夜書房の編集者)に会った1988年にはその集団が出入り禁止になったと知り、池袋に戻っていた。

 要町の持ち家を売って母親と2人、世田谷・用賀の賃貸マンションに転居したのは92年暮れ、46歳のときであった。生活を長期的に考えてのことだろう。2DK、家賃15万5000円、利益率が悪いうえに収入の不安定なパチプロ生活だが、その頃には「パチプロ日記」などのコラム原稿料が定期的に入ってきていた。