国民的スターから市井の人まで、個性豊かな晩年を匠の筆で描き出し、彼らが世を去った〈現代〉という時代を浮かび上がらせる――山田風太郎が著した『人間臨終図巻』の衣鉢を継ぐ、21世紀の新たなる図巻シリーズ『人間晩年図巻』(著:関川夏央)が各方面で話題を呼んでいる。

 ここでは、同シリーズの最新巻『人間晩年図巻 2000-03年』(岩波書店)の一部を抜粋。東大中退という異色のキャリアの“ギャンブラー”として人気を博した田山幸憲氏の生涯を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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東大をやめてパチプロに

 田山幸憲は1965年、都立小石川高校を卒業した。おなじクラスで一番だったのは鳩山由紀夫だが、がり勉タイプなので田山は距離を置いていた。高校2年のとき田山は、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を読んで魅せられ、静岡県清水の海員学校を進学先に考えたが、近視はダメだといわれ、あきらめた。その後、東大を目指して勉強を始めたがすでに遅かった。最初の年は失敗、それでも一次試験は通った。浪人中は、予備校には通わず、66年、東大文科三類に合格した。

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 しかし受かって目標を見失ったか、学校は休みがちになり、その年は留年した。67年にはそれなりに勉強して2年生に進級したが、再びやる気をなくし、塗装業などのアルバイトに専念した。69年1月、全共闘の「安田講堂攻防戦」があった。そういうことに興味を持てなかった田山を含め、この年は全員が留年ということになった。塗装の腕は上がり、たまたま誘われてやってみたパチンコでも驚くほど玉を出した。ますます学校から足が遠のいた。

コネをたよりに大阪へ

 70年、東大にこだわっていた父親が亡くなり、24歳のとき5年間在籍した東大を退学した。母親が大学に頼んで、もう1年休学扱いにしてもらったのだが、本人は知らずにいた。パチプロ生活は73年、26歳からである。だが77年、田山は突然会社勤めをした。営業職だった。訥弁なのに成績は必ずしも悪くはなかったというが、半年で辞した。やはり会社員は向いていない。再びパチプロに戻って、夜は家庭教師を兼業した。

 86年、39歳のときネグラにしていた池袋西口「山楽会館」にパチプロ集団が入り込んだ。店の空気の悪化を嫌った田山は、コネをたよりに大阪へ行き、腕に自信のあった塗装業でやり直そうとつとめた。しかし体力の衰えは争われない。断念して東京へ戻った。その後もだいたい5年ごとに、パチプロから足を洗いたい衝動に駆られた。