インタビュールームにリップシュタットが入ると一瞬で空気が明るくなった。「通訳が間に入ると、私のユーモアがうまく発揮できないわ」と笑う歴史学者は、17年前、世界中が注目する世紀の裁判に出廷した。彼女は著書『ホロコーストの真実』の中で、イギリス人歴史学者D・アーヴィングを「ホロコースト否定論者であり、極右派である」と書き、名誉毀損で訴えられたのだ。裁判で勝つには、「ホロコーストは事実だ」と法廷で証明するしかない。かくして、ポーランドでもドイツでもなく、イギリスにおいて「ナチスによる大量虐殺はあったのか」を判断する裁判が行われることになる。
その経緯を認(したた)めたのが本書『否定と肯定』である。ユダヤ人としての出自、弁護士選びでの逡巡、狂騒するマスコミ、著名映画監督からの金銭的援助のオファー、さらには法廷に立つアーヴィングが着たストライプのスーツ、ランチで弁護士が食べたまずいサンドウィッチの話まで。記述はこれでもかというほど詳細だ。
「解説するのではなく、一連のすべてを書いて、読者に判断して欲しかった」
詳細な記述が臨場感をもたらし、情景が目に見えるようで、読物として面白い。
近年、ホロコースト否定に限らず、「歴史修正」や「オルタナティブファクト(事実に対するもうひとつの事実)」を奉じる動きが世界中で見られるようになった。
「物事を捉えるには『事実』『意見』そして『嘘』の3つの見方があります。例えば、第二次世界大戦があったことは『事実』。そこで大量殺人は起きていないというのがホロコースト否定論者の『意見』。個人的な意見を持つことは自由ですが、事実と混同すると、それは『嘘』になるのです。昨今の歴史修正論者はカギ十字付きの制服を着ません。あたかも羊の皮を着た狼のように。そして、白人優越主義者はおしゃれなプレッピー風ファッションで、『白人のアイデンティティを祝福させてください』などといいます。これを私はエスノナショナリズムだと思い、危険に感じています。今後、白人優越主義者が行進するとき、彼らはわかりやすい旗など振らないでしょう」
『否定と肯定』は執筆中からすでに映画化のオファーがあったが、いよいよ現実のものとなった。リップシュタット役を演じたのはイギリス人実力派女優レイチェル・ワイズ。映画は、原作の詳細な記述が、よく生かされており、非常にリアルな作品となった。
『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い 』
2000年に実際に起こった法廷闘争の記録。「ナチスによる大量虐殺はなかった」と主張するイギリス人歴史家アーヴィングは、ユダヤ系アメリカ人歴史学者リップシュタットを名誉毀損で訴えた。真実をかけた法廷闘争、緊迫の1779日を描く。映画『否定と肯定』の原作本。