ドイツ人作家のハンス・ファラダがゲシュタポの記録文書を元に書いたベストセラー小説『ベルリンに一人死す』を映画化した「ヒトラーへの285枚の葉書」(7月8日より全国順次公開)が、話題を呼んでいる。

 舞台は第二次世界大戦中のベルリン。一組の夫婦が、愛息を戦争で失ったことをきっかけにヒトラーへの静かな抵抗を始める。

「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」

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 夫婦はナチスを批判するメッセージをしたためた葉書を、ベルリン市内に撒き始めた。その数285枚。途中から夫婦は、自由な言論こそがナチス政権を終焉に導くと信じ、葉書に「フリープレス」と書くようになった。

 しかし、葉書を拾ったベルリン市民の大半は、それをナチスの秘密警察・ゲシュタポに届け出た。

 ベルリン市民はヒトラーを熱烈に支持し、やがてヒトラーが張り巡らせた恐怖政治に支配されて自らの思考を停止していく。

大叔父がガス室に送られた

現在公開中の「ヒトラーへの285枚の葉書」より

 ナチス支配下のドイツを覆った全体主義の恐怖を見事に映像化したのは、90年代に俳優として活躍し、自らもガス室に送られた大叔父を持つヴァンサン・ペレーズ監督。

 人々はなぜ「全体」に流されるのか。『東芝 原子力敗戦』の著者でジャーナリストの大西康之がペレーズ監督に聞いた。

大西 原作の『ベルリンに一人死す」の初版が刊行されたのは終戦直後の1947年ですが、2009年に英訳され、世界的なベストセラーになりました。監督がこれを映画化したいと思った理由を教えてください。

ペレーズ 私の大叔父はユダヤ人ではなくドイツ人ですが、精神疾患を患っていたため、(ナチスが身体障害、知的障害、精神障害のある人を殺害の対象とした)「T4作戦」によって、ガス室に送られ、殺害されました。全体主義による悲劇の一部です(註:T4作戦によって公的な資料で判明しているだけでも約7万人が殺害されたと言われる)。

 私は大叔父が殺された病院へ行きました。70人の患者が押し込まれた狭いガス室もそのままの状態で残っていました。それを見たとき「メッセージを発信しなくてはならない。悲劇を見た人々の声を保存しなくてはならない」と強く感じ、『ベルリンに一人死す』を自分の手で映画化したいと思ったのです。

ヴァンサン・ペレーズ監督(左) ©大西康之

恐怖から良心を押し殺す

大西 映画のモデルとなった息子を失った夫婦は実在し、その記録が残っていたそうですね。

ペレーズ はい、ゲシュタポはかなり正確な記録文書を残していました。葉書が見つかった住所まできちんと記録されていた。記録によると夫婦がベルリン市内にばら撒いた告発の葉書は全部で285枚。このうち267枚は拾ったベルリン市民の手でゲシュタポに届けられています。

大西 夫婦の命がけの告発は18人にしか届かなかった。

ペレーズ いいえ、ゲシュタポに届けなかった18人の市民のうちの多くは、葉書を拾ってしまったことが怖くなって破棄したのだと思います。

大西 私は日本の電機大手、東芝の取材をしています。東芝では過去何年にもわたって、多くの部門で粉飾決算が行われていた。「チャレンジしろ」という経営トップの方針に従って利益を水増ししたのですが、この作業には何百人もの東芝社員が関わったと思われます。

 先端的なコーポレートガバナンスを導入していた東芝には社内の不正を内部告発するためのホットラインが設置されていました。一つは外部の弁護士、一つは社内の担当部署に繋がる仕組みでした。しかし、粉飾決算が発覚するまでの約7年間にわたり、粉飾決算を告発する通報はホットラインに一つもなかったというのです。映画を観て、東芝の粉飾決算で起こっていた、組織という「全体」のために個人が良心を押し殺す構図は、非常に全体主義的であると思いました。

「ホロコースト」と「粉飾決算」は重さが違いますから、比較するのは必ずしも適切ではないかもしれません。しかし、悪事に気付きながら、それを見逃した人々も、ある意味「有罪」と言えるのではないでしょうか。