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“耐えて勝つ”がファンにも次第にむなしく感じられ

 だが、長年の低迷で負け犬根性が染みついたチームは監督やコーチが入れ替わったところですぐに変わるはずもなかった。87年シーズン、たまに調子良さそうに見えた途端にズルズル連敗するのは相変わらずで、優勝争いには絡めない。それでも88年は古葉監督が抜擢した高橋雅裕と銚子利夫が1、2番で機能し鉄壁の三遊間を形成。21歳の中山裕章がリリーフで独り立ちし、高木豊、ポンセ、パチョレックが打ちまくって4位でフィニッシュ。チーム失策54と当時のリーグ最少記録を達成して古葉さんが目指すディフェンス野球は少しずつ形になりつつあった。来年こそいよいよ……と期待が膨らんだものの、翌89年は前年活躍した面々が揃って不調に陥り、開幕から連敗を繰り返してしまう。焦ったフロントは開幕早々試合後のロッカールームで選手と首脳陣にゲキを飛ばすも、選手をかばったあるコーチをその場で球団社長が罵倒する事態に。古葉大洋勝負の3年目はいきなり歯車が狂ってしまった。

古葉大洋の打の中心だったポンセも、89年は不振に陥った ©️文藝春秋

 フロント同様、僕らファンも堪え性がなく、古葉監督の座右の銘“耐えて勝つ”が次第にむなしく感じられるようになってきた。チビッ子たちを魅了した高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオは解体され、ベテラン高木由一と山下大輔は余力を残して引退。クセ者若菜嘉晴は日本ハムに放出され、ケガがあったとはいえまだ30代前半のチームの顔・田代富雄がスタメンに名を連ねる機会は減った。そこまでしたのに成績がこのザマじゃ……。この年のハマスタはどこか醒めた空気が漂っていた。

試合後ベンチに座ったまま泣き崩れた高木豊

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 古葉監督にとっては、絶対的エース遠藤一彦が87年終盤にアキレス腱を断裂したことが一番の誤算だっただろう。以降は新浦や欠端光則、若い大門和彦、本来はストッパーの斉藤明夫らで先発ローテーションを回さざるを得ず、投手力の弱さは89年になっても改善しなかった。前年はロングリリーフで投げまくり10勝24セーブを挙げた中山も、疲労が抜けず投げては打たれを繰り返し、リードする展開でも逃げ切れない。6月8日には泥沼の10連敗、同時に前年からの巨人戦18連敗を喫してしまい、選手会長の高木豊は試合後ベンチに座ったまま泣き崩れた。それはこの年を象徴する辛いシーンだった。