映画脚本の場合は、家を建てるときのように全体の設計図があって、最後はこうなるとみんなで決めてから作るんです。一方で小説は、霧のかかった山を1人で登るみたいな作業なので、作家自身が自分でもわからないまま書いていないと面白くないと思うんです。自分にはこんな気持ちがあったんだとか、思ってもみない文章が書けてしまったとか、キャラクターが勝手に喋りだしたみたいな瞬間が重要で。
今回の作品も、ラストシーンは当初想定していたものとは全く違う展開になったので、「ああ、自分は本当はこっち側を信じたかったんだな」と驚きました。でも、それが面白かったし、それで良かったと思っています。
天気雨のような複雑さこそ「美しい」
――この作品を通して、川村さん自身のスタンスも変わったということでしょうか?
川村 うーん、どうなんですかね……。ただ、今回、写真家の川内倫子さんの作品を表紙に使わせていただいたんですけど、ラストシーンがまさにその写真のイメージだったんです。雷雲の中に光が隠れている感じで、明快な希望とはいえないけれど、後ろに光を感じるという。もともと、僕はピーカンより「天気雨」が好きなんです。晴れだけど雨が降ってる複雑な感じというか。
天気雨のような複雑さを、理屈抜きに綺麗だなと思うんです。何かと白黒はっきりつけようとすると戦うしかなくなる。『神曲』を書き終えて、白でも黒でもない、まだらの複雑さの中にこそ、人間の良さや美しさがあると思うようになりました。物語を書くとどうしても白黒はっきりさせたくなってくるんですけど、やっぱりその欲望には抗っていかないといけなくて。僕自身が、何を信じたらいいのか、揺れながら書いていたから結論も変わったんだと思います。
「聖書のストーリーテリング」が染みついている
――さきほど、ご親族が熱心なクリスチャンだったと伺いましたが、そのことで苦労したことや良かったことはありますか?
川村 小さい頃からいろんなことを強制されたのは嫌でした。だけど、結果的にありがたかったのは、徹底的に聖書を読まされたことです。僕の文体が翻訳文体なのは聖書の影響なんです。3歳の頃から旧約聖書と新約聖書を、読み聞かせを含めて毎日浴びるように読んでいましたから。
――それでも川村さんがクリスチャンにならなかったのはなぜでしょうか?
川村 たとえ幼児洗礼を受けても、教会に行かなくなる人はいます。でも、聖書は完全に体に染み付いているので、僕のストーリーテリングの基本は聖書です。僕の小説が海外でも出版され読まれているのは、聖書のベースがあるおかげだと思っています。聖書のコンテキストが根本にあるので、海外の方と通じる部分があるのかなと。韓国のドラマや映画が世界的にヒットしているのも同じ理由で、根っこにキリスト教があるからだと思ったりもします。
僕の作る作品は、良くも悪くも聖書のストーリーテリングから逃れられない。聖書に出てくる人間って本当に面白いんですよ。のっけのアダムとイブから既に面白い。「これだけはやってはいけない」と神から言われたことを信じられなくなって、人間はことごとく過ちを犯す。今回の作品にも林檎が登場しますけど、気づかないうちにそういうモチーフがすっと入ってきちゃうんです。