ライフハックは社会全体の変化に繋がるのだろうか?
思考の幅が狭くなったとしても、才能さえあれば、個人が経済的に成功する分には問題はないのだろう。ただしこの社会全体の福利のことを考えると、若い才能の思考が限定された方向にのみ働くのは、多くの人々を幸福にすることにはつながらないかもしれない。NewsPicksは2018年に「さよなら、おっさん。」と題した広告を日経新聞に出した。「NewsPicks系」の人たちは、漠然と「おっさん」的なものを社会が変化しない原因として捉えている。前記事で紹介したひろゆきもそうだろう。
だが、そうした「おっさん」に牛耳られた社会を変えたいと真に考えるならば、なおさら公共的思考が必要なのではないのか。ここ数年で気候変動問題が世界的なトピックとして急激に浮上したのも、グレタ・トゥーンベリに代表される若い世代の社会運動であり、その方法は、古典的なデモ活動だったのだ。だが日本では、そのような社会運動のスタイルは古臭いとして今なお嫌悪され続けている。そのせいか、日本では気候変動問題が先進国で唯一、選挙の主要なトピックにあがらない国となっている。
ここで前回記事に書いた結論をもう一度くり返すが、個人のライフハックは社会の変化に繋がらず、各個撃破されてしまうのではないか。社会は「身内」と「市場」に分断され、新自由主義が来る。公共的意識が存在しないので、社会の危機は認識されないし、認識されたとしても誰も解決に向けて真面目に動こうとしない。ビニールハウス農家の若者のように、若い世代を中心にライフハック的な価値観は広がりつつある。だが、この世代の時代精神の延長線上には、こうした未来が待っているのではないだろうか。