そんな状況のなかでも、自分が本当にやりたい音楽をつくっているときだけは、すべての不安を忘れられたという。結局、彼に残されたのは音楽しかなかったのである。裁判でも、被害者や迷惑をかけた周囲の人々に再びヒット曲をつくって償っていくことを約束した。
事件後の小室のインタビューを読んでいると、純粋に音楽に向き合っていこうという態度がうかがえる。
2011年には、カルチャー界からゲストを迎えてのトークやDJプレイなどをストリーミング配信するサイト「DOMMUNE(ドミューン)」に出演、シンセサイザーを何台も並べて2時間ノンストップで演奏を行い、途中で手から流血しながらも鍵盤を叩き続ける小室の姿を、延べ14万人が視聴した。小室としても、90年代にミリオンを連発していたころの自身のパブリックイメージを覆すことができ、幸せな体験だったようだ。
本当は「サブカル志向」だったと告白
同年には、やはりDOMMUNEで、小室が音楽を始めるきっかけとなった作曲家・シンセサイザー奏者の冨田勲と初めて共演も果たしている。翌2012年には初音ミクなどのボーカロイドを使った自身のカバー曲集をリリースするなど、新しいツールも貪欲に取り込んでいく。
DOMMUNEはいわゆるサブカルチャー系のアーティストが出演することも多い。かつては、サブカルチャーの人たちには小室のことを受け入れない感じがあったという。だが、音楽活動を再開した彼に手を貸してくれたのはサブカル側の人たちであった。
ある対談では《ずいぶん変わってきたのはサブカルチャーの人たちからは100%アンチだったのが、まず彼らが救ってくれた。「この人、本当に音楽が好きなんだな」ということを支持してくれだして、それからですね》と語っている(※2)。
別のところでは、《今は関心を持ってくださるのがサブカルチャー的なところだったりして。じつは一番最初にやりたかった方向、なりたかったのはそっちだったので》と、本来はサブカル志向だとも明かした(※3)。
じつはヒットへのプレッシャーに苦しんでいた頃にも、作家性に重きを置いた楽曲を手がけており、2008年には『Far Eastern Wind』というアンビエントミュージックのシリーズをiTunes Storeで限定配信した。このジャンルはイギリスの音楽家ブライアン・イーノが切り拓いたもので、小室は高校時代にイーノのアルバムから受けた衝撃が、いまなお心に残っていたという。先述したように、つくっていると不安を忘れられると彼が語っていたのは、こうした音楽だった。