磯田 おそらく彼らにとって本当の宮家は、以前から続く四家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)のみというイメージもあったでしょう。さらにここでも問題になるのが、西欧化による一夫一妻制です。皇位継承を安定したものにするため、宮家を増やすことになったものの、伏見宮の直系ということが重視され、朝彦親王(中川宮)が久邇宮家の創設を許され、さらにその子供たちが、賀陽宮(かやのみや)、梨本宮、朝香宮、東久邇宮と、次々に新たな宮家を興すことになった。当時はまだ朝彦親王が、薩長政府を裏切って徳川慶喜と共謀しようとしたことも記憶に新しいわけで、自分たちが奉った宮家ではないという意識は当然あったと思います。
今に始まったことではない、縁談をめぐる皇族の問題
林 本作のスピンオフとして、久邇宮家を継いだ邦彦(くによし)王の長男であり、良子女王のお兄様、朝融(あさあきら)王の縁談について「綸言汗の如し」という短編を書きましたが(「オール讀物」9・10月号掲載)、そこでも長州出身の元老・山縣有朋は、島津家の男系の血筋に視覚障害があることを理由に、良子女王へ婚約辞退を迫ります。父の邦彦王による貞明皇后への上奏により無事に婚約は成ったものの、今度は朝融王が伯爵家の酒井菊子との婚約を破棄するスキャンダルが発生し、大きな波紋を華族界に投げかけます。皇族の縁談をめぐる問題は、決して今に始まったことではないんだなと、調べていて非常に面白かったです。
磯田 とりわけ前近代社会では、縁談と凄まじい権力闘争が密に繋がっていたと思います。歴史上、縁組しようと自分から皇室に接近した人をみると野心家もかなりいるわけです。歴史家としては、いつも欲のない心の綺麗な人ばかりが皇室に接近してきて縁組が成り立つようなイメージは、絵空事のような気がします。
林 なるほど。すごく深いお言葉だと思います。とはいえ、梨本宮妃伊都子さんは、やはり時代をよく読んで、周囲の人々を注意深く見定めながら、さまざまな縁を取り結んだのだと思います。94歳まで生き、美智子さまの代まで見届けられて、パワフルで魅力的な方でした。こういう日本の貴婦人がいたことを、多くの皆さまに知ってもらえたらうれしいですね。
(文:「オール讀物」編集部)
はやしまりこ 1954年、山梨県生まれ。86年「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞、『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞受賞。最新刊『李王家の縁談』発売中
いそだみちふみ 1970年、岡山県生まれ。歴史学者。国際日本文化研究センター教授。『武士の家計簿』『無私の日本人』『感染症の日本史』ほか著作多数