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きれいごとが多すぎる社会

──ベッキーさんなんかもそうですけど、一度くらいは失敗したことを大目に見てあげられるような社会にしてほしいなと僕なんかは思うんですが。

松本 大人たちが率先して自分たちの失敗を語れる社会になればいいと思いますね。自分のカッコ悪い話を打ち明けやすいオヤジでいられたらいいなぁと。みんなきれいごとが多すぎる気がするんですよ。耳ざわりがいいことだけを言っている感じがあって、そうするとしんどい人たちはもう声を出せなくなってしまう。

 結局、みんな内なる優生思想みたいなものを持っているんだと思うんです。自分の中に「人はこうあらねばならない」という幻想の牢獄を自分で作って、その囚人になってしまっている。たとえば、女性の患者さんで「自分なんか30歳すぎて独身で、嫁き遅れて彼氏もいなくて仕事もしてない。もう死にたい」という人がいるけれど、その内なる優生思想が自分の首を絞めて苦しくなってしまっている。「別にいいじゃん、そんな自分でつくった牢獄から脱け出してボチボチ自分のペースで生きようよ」って思うんです。

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©杉山秀樹/文藝春秋

──そうなるとダメ親父にも何か出番があるかもしれないですね。

松本 臨床現場で一番厄介なのは、親にとっていい子であるために過剰適応して、本当は親に対する怒りもあるのに、その気持ちに蓋をしながら、リストカットが止まらなくなっているケースです。そういう子たちが今、かなりの数いるんですよ。

 その子たちが回復していく過程で、親に対して「やっぱり親として最低だった」と言い出して、やたらと「あんたのせいで私がこうなった」って責める時期がある。でも、更に年をとってくると、まぁ人生色々あるよね、みたいな感じで和解したりするんです。

──関係性にも波があるんですね。

松本 だから僕はやっぱり一時的に親を責める時期とか、親をディスる時期というのは、大人になるプロセスで必要な気がするんですよね。

自殺名所で飛び降りようとして止められた人たちの驚くべき追跡調査結果

──そういう意味でいうと、そのリストカットを繰り返している人たちでも、回復して、年を重ねている人もたくさんいるわけですよね。

松本 ええ、そうです。サンフランシスコに金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)という自殺の名所があります。ここで飛び降り自殺しかけているところを発見されて、警察官に強制的に追い返された人たちのその後を追った調査があるんですが、なんと数年後の生存率は9割を超えていたのです。

 発見時の支援は「パトカーに乗せて自宅に送り届けた」だけであったということを考えると、生存率の高さに驚きます。おそらく、ちょっとした手助けが心の天秤の傾きを変え、命運を分けるのでしょう。

──小さな出会いや人と繋がることによって、ある人は親に毒づけるようになったり、ある人は救われていったりするわけですね。

松本 ええ。でも別に僕が救ってるわけじゃないんですよね、きっと。僕らが診察で出来るのは、ひとまず死なないようにすること。時間稼ぎしているような気がします。

 でもそのようにして治療をしている期間にも、リアルな世界のなかでいろいろな出会いがあったりして、それをきっかけにちょっと風向きが変わっていく気がするんですね。だから僕らの仕事はとにかく目の前の患者さんを死なせないこと、そしてリアルの生活のなかで誰かと出会うチャンスを奪わないことだと思っています。

 そして今回の事件をきっかけにSNSを規制し、見かけだけクリーンな社会を作り上げるのではなく、SNSをむしろ活用して、安心して「死にたい」と言える場所つくりをしていければと、きれいごとに聞こえるかもしれませんが、僕は心底願っています。

松本俊彦(まつもと・としひこ)

国立研究開発法人 国立精神・神経医療センター 精神保健研究所 薬物依存研究部部長。1993年佐賀医科大学医学部卒業後、国立横浜病院精神科、神奈川県立精神医療センター、横浜市立大学医学部付属病院精神科、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 司法精神医学研究室長、同自殺予防総合対策センター副センター長を経て2015年より現職。日本アルコール・アディクション学会理事、日本精神科救急学会理事、日本社会精神医学会理事。