「これ以上袴田さんの拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」

 1966年に静岡県で起きた「袴田事件」。袴田巌元被告は公判で無罪を主張したが、静岡地裁は68年に死刑を言い渡し、80年に確定。ところが2014年になって、静岡地裁は3月27日に再審開始を認める異例の決定を下した。それに際して、村山浩昭裁判長が述べたのが、冒頭の言葉である。

 村山裁判長は、「(有罪の最有力証拠とされた物品は)捏造されたものであるとの疑問は拭えない」「捜査機関により捏造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、きわめて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた」と強く批判。問題の根深さを指摘した。

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 一体、袴田事件とは何だったのか。元刑務官で実際に袴田氏とも関わり、長年支援を続けてきた坂本敏夫氏に、ノンフィクション作家の木村元彦氏が迫った――。

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 坂本敏夫が袴田巌に初めて会ったのは1980年の7月であった。

 当時、坂本は刑務官の現場を離れ、法務省の官房会計課矯正予算係事務官として、毎年7月に入ると、大蔵省(現財務省)に提出する概算要求書を作る仕事のために東京拘置所にひと月もの間、泊まり込んでいた。

 要は全国の刑務所の予算取りをするための書類の作成で、要求する金額の根拠となるものを提示するために多くの関係者にヒアリングする必要があった。その中で最も心労に負担が重なったのが、死刑関係者の面接であった。

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 死刑執行に従事した拘置所職員、死刑確定囚、そして死刑判決を受けて上告中の被告人、これらの人々に会って意識や意見を聞き込み、執行者などの処遇をどう改善すべきか、予算要求に向けてまとめるのである。

「殺人や極刑、つまりは死にまつわる話ですから、調査すること自体、辛いんです。人を殺したとされる死刑確定囚とたった2人きりで向かい合って話を訊くという作業も精神的にしんどかったですよ。偏見ではなく、怖いし、嘘もつかれます。コミュニケーションの取りづらい人も多い。こちらに対しての剥き出しの敵意もある」(坂本氏・以下、注記を除き同)

坂本敏夫氏 ©文藝春秋

異彩なオーラを放つ人物・袴田巌

 ところが、まったく異彩なオーラを放つ人物に出遭った。

「そんな中でひとりぽつんとまったく異なる性格や振る舞いの人がいるとすぐに分かります。袴田さんに会って、ああ、この人は絶対に殺っていないと思った。それは長年、看守をやった経験からたくさんの殺人犯に会って来ましたから、確信に近いものでした。殺っていない人が殺ったことにされて酷い目に遭っているというのは想像を絶する苦しみだと思うのです。それでもあの人は毅然としていた」