「これ以上袴田さんの拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」

 1966年に静岡県で起きた「袴田事件」。袴田巌元被告は公判で無罪を主張したが、静岡地裁は68年に死刑を言い渡し、80年に確定。ところが2014年になって、静岡地裁は3月27日に再審開始を認める異例の決定を下した。それに際して、村山浩昭裁判長が述べたのが、冒頭の批判である。

 村山裁判長は、「(有罪の最有力証拠とされた物品は)捏造されたものであるとの疑問は拭えない」「捜査機関により捏造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、きわめて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた」と強く批判。問題の根深さを指摘した。

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 今年9月には、67年に茨城県で起きた強盗殺人事件について、無期懲役で29年間収容された後、再審で無罪となった桜井昌司さんの損害賠償訴訟が、国と県に計約7400万円の支払いを命じた東京高裁判決で確定。いまなお、「不当捜査」は大きな問題になり続けている。

 なぜこのような事件が繰り返されてしまうのか。元刑務官で実際に袴田氏とも関わり、長年支援を続けてきた坂本敏夫氏に、ノンフィクション作家の木村元彦氏が迫った――。

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日弁連の支援と一変した刑務所の対応

 1年が経過した。1982年7月、袴田をずっと案じ続けていた坂本は予算要求書作成作業中に3回目の面接要請を行った。驚くべきことに官による対応が、これが同じ東京拘置所かと思えるほどに変わっていた。

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 面接場所が冷房の効かない取調べ室に格下げになり、そこでは待てど暮らせど、袴田が訪れる気配は無かった。開始予定時刻から1時間が経過すると、副看守長がやって来た。そして、「今日は本人の心情が不安定なので面接はさせられない」と告げられたのである。

 坂本は他の日はスケジュールが埋まっているので、ならば所長に直接お願いさせてくれと食い下がった。いやしくも袴田との面接は、死刑確定囚についての書類作成という法務省事務官の公務のひとつである。妨害をされる理由など無いはずである。副看守長はしぶしぶ折れて、それから30分後、袴田はようやく刑務官と共に現れた。

 袴田は1年ぶりの再会を喜び「久しぶりです。お元気でしたか」と先にあいさつをよこした。刹那、そばにいた刑務官が怒鳴った。「袴田! 勝手にしゃべるな!」面接自体を潰したいかのような扱いと、手のひらを返したような高圧的な態度が露見した。なぜ対応が変わったのかは、刑務官が席を外した後に袴田が誇らしげに語った言葉で明らかになった。

「日弁連が私の応援をして下さることになったのです」と坂本に告げたのである。日本弁護士連合会が袴田支援の委員会を設置して立ち上がったのである。裁判を考えれば、これ以上無く心強い体制である。