19歳で亡父のあとを継いで刑務官になった坂本敏夫は、大阪刑務所着任4年目を迎えた昭和45年(1970年)の秋に中間幹部養成の研修に入った。

 場所は谷町四丁目の合同庁舎である。坂本は11月25日の昼食時にここの食堂のテレビで三島由紀夫の割腹自殺の一報に触れたことを強烈に記憶している。

 無事に12月に研修を卒業すると警備隊に配属された。これで看守部長への道が開け、あとは現場の実績を積み高等科の研修を受ければ、所長まで行けるのだ。

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「伝令です。4区に向かって下さい」

 事件は年が明けた昭和46年(1971年)1月15日に起きた。午前2時過ぎ、刑務官官舎の玄関の戸が勢いよく叩かれた。眠っていた坂本は飛び起きて灯りを点けた。

 戸を開けるよりも早く、「保安本部の伝令です。4区に向かって下さい」と屋外から声が掛けられた。警備隊長以下警備隊員13名に非常登庁命令が伝えられたのである。

「了解しました」と返答した坂本は警備服を着用し登庁、警備隊室で帯革に手錠と警棒を装着し懐中電灯を所持して指示された刑務所の4区に走った。

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 4区で何が起こっていたのか? 高さが5.5mあるこの地区の西側外塀に大きな梯子が架けられているのを、同日深夜0時過ぎに近郊を流していたタクシーの運転手が発見したのである。運転手が所轄の堺北警察署に通報したことで、刑務所に緊急事態が告げられた。

 誰もが「逃走か!」と思った。塀の外側に靴底の擦過痕があるのを発見されたが、不思議に梯子が架けられた塀の内側にはその痕跡は無かった。そして坂本たち警備隊員が登庁した時には、既に1区~4区、病棟全ての舎房の点検が行われ、2500名余の受刑者全員が一人残らずいることが確認されていた。

 逃走はなかった。ならば、侵入か……。所内に潜伏している可能性があるということで、警備隊員は捜査を命じられた。坂本たちは午前7時まで、400メートル四方の構内をくまなく点検する。工場はすべて巡回して侵入の痕跡がないか調べたが、異常なしだった。

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 ただ1ヵ所、印刷工場だけは大学入試問題印刷中の間(12月から2月まで)、職員は立ち入り禁止になっていた。その出入り口には通常施錠のほか、鎖を掛け南京錠で二重の施錠がしてあり、工場の窓にはすべて鉄格子がはめられているので侵入は不可能なのだ。

 結局、異常はなかったということで、坂本たちの非常時任務は解除された。その後、外部からの侵入事件対策として夜勤者による深夜の巡回警備は強化されることになったが、刑務所は本件についてはこれ以上、捜査をせず一件落着となった。