そしてついに盗みの犯行は実行された。最初に入試問題が持ち出されたのは、昭和43年1月、厳封された大阪大学と大阪市立大学の入試問題が、Bから、最終的にAに渡った。
Aが出所して実に5年あまりが経過している。面会と手紙の暗号を通して周到な準備がこの間、なされたのである。盗み出せ! という決行をうながす暗号は「そろそろガス工事にかかりたいんやが」というものであった。
「あの問題がそのまま出ている!」
Aは一方で盗んだ入試問題を販売するグループを組織していた。接骨医や医療器具販売者、病院事務局長などを取り込んで7人の勧誘メンバーを作ったのである。
入試問題の相場をひとり800万円から1200万円で設定し、彼らを受験生を子どもに持つ医者、会社経営者などに接近、勧誘させた。そして抜け目なく同時に解答グループも手配した。これは盗んだ入試問題の正解を作成するチームで主に予備校講師や現役大学生によって構成された。
解答が出来あがると、勧誘グループは受験生たちを「直前強化」としてホテルや旅館に試験前日まで缶詰にし、問題とこの解答を徹底的に暗記させた。この合宿費用もまた30万~50万円に設定してさらに徴収した。実はこの段階でほとんどの受験生たちは親から、何も知らされておらず、皆、試験本番で「あの問題がそのまま出ている!」と驚嘆するのである。
勧誘グループは保護者の資産状態を徹底的に調べており、それによって金額に幅を持たせた。暗記が出来ずに不合格になった受験生も2割ほどいたが、「今年は残念でしたが、実際に同じ問題だったでしょう? 来年もありますから、そのときは半額で良いですよ」とつなぎとめて2年続けての上客にしていた。
盗む段取りから、解答の手配、一夜漬けの暗記とは言え、学習させる環境の提供まで緻密に計画されたこの犯罪は、学歴社会の潜在的な需要に支えられて成功する。膨大なカネが動き、昭和43年から3年に渡って行われたのである。
市の教育委員長も購入、知人の医師にも仲介…
不正受験者の数は年々増え、昭和43年は阪大医学部の不正受験者数2人(合格者1)、同じく阪大法学部の不正受験者数1人(合格者ゼロ)、昭和44年は阪大医学部8人(合格者7人)、同法学部2人(合格者1人)、大阪市立大医学部6人(合格者6人)、同商学部1人(合格者1人)、同工学部1人(合格者ゼロ)、昭和45年は阪大医学部10人(合格者ゼロ)、同歯学部4人(合格者1人)、同薬学部1人(合格者ゼロ)。