また、50名余りいる他の工場就業受刑者にも気付かれずにボールを塀の外に投げ出すことは不可能に近いですし、塀の外にも看守がいるんですよ。実は入試問題印刷中に限り、印刷工場の運動時間中は塀の外にも警備隊員1名を配置していたのです」(坂本氏)
入試問題についてはかくも厳重な警備体制を敷いていたからこそ、まさかという死角になったのだが、それにしても調べれば疑念を抱きそうなバレーボールによる運び出し説がなぜ流通してしまったのか。
「塀の外から中へ投げ入れられた例はいくつもあるんです。未明から早朝にかけて、コンクリートの塊が投げ込まれていて、それにはタバコ、マッチ、チョコレート、あるいは、ウイスキーなどの酒の小瓶、金切りノコギリの刃が仕込まれていたこともあった。しかし、それらはすべて没収されました。
また、釈放者が塀を乗り越えて、工場に禁制品を置きに来たところを現行犯逮捕したこともありました。しかし、受刑者によって中から外に放るのはありえない。入試問題として最終的に製品ができあがるのは46工場なんですが、46工場の運動時間って毎日違うんですよ。で、外から合図があるにしても中のやつがボールを放り投げて外で受けるなんてありえない。
答えは一つです。刑務官が絡んでいなければ成立しない犯罪でした。しかし、刑務所はこの件では全面的に大阪府警に協力した。私も徹底的に調べ上げて資料を提出しました。だから、内部の人間の関与は告発されずに、バレーボールにして手打ちにしたのでしょう」(坂本氏)
いまとなっては真相は分からない。そして最後に当時の刑務官として坂本はこんなことを言った。
批判の矢面に立った刑務所長の背中
「私のような立場の人間からすると、大きな変化がありました。前の年の金嬉老事件、そしてこの年の大阪刑務所の入学試験漏えい事件。この2つの事件の結果、刑務官の待遇が大きく改善されたのです。
ずさんな刑務所管理と叩かれたのですが、それは限界でした。人手は足りない、勤務時間は長い。当時、事務官の勤務時間は週44時間なのに塀の中の刑務官は53時間でした。まだテレビカメラもない時代ですから、見張り台にも人を立てて、一晩69人ぐらいで3000人近い受刑者を見ていました。
夜の10時から朝の5時まで1時間おきに見回る。その夜勤を10回やらないと休みがもらえなかった。江村所長は試験問題の件で世論から攻撃されながらも、『それには看守の劣悪な労働環境もある、理解してほしい』というようなことを言ってくれて改善に繋げてくれたのです」(坂本氏)
その事実は決して軽くはないだろう。過酷な労働に耐え、看守を公僕として務めあげた彼ならではの実感だった。