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連載刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち

「あの問題がそのまま出ている!」なぜ流出するはずのない“医学部入試問題”は塀の外に持ち出されてしまったのか?

大阪刑務所入試問題流出事件#2

2022/04/17

genre : エンタメ, 社会

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 合計36人が受験し、17人が合格している。これにより2億3000万円が動いた。殺されたAが取得したのは、このうちの1億4389万円で、残りを盗み出した実行犯と勧誘グループで山分けしたと言われている。大卒の初任給が約3万1000円の時代である。笑いが止まらなかったであろう。

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 高級外車を乗り換え、愛人を囲い、毎夜の豪遊を繰り返した背景には、歪んだ日本の偏差値教育と受験生の親たちのモラルの低さがあった。教育者として公職にある箕面市の教育委員長までが、息子に買い与え、成功すると知人の医師に仲介していたことが判明した。

 坂本は述懐する。

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「昭和45年の合格率が低いのは5教科の内、3教科しか盗み出せなかったからですよ。そこで翌年は完璧を期そうとした結果、私たち警備隊が深夜にたたき起こされた昭和46年1月15日の決行に至ったわけです」

 塀にかけられていた梯子が発見され、「すわ! 脱獄か?」と大騒ぎになったあの日にはいったい何が起こっていたのか。

 印刷工場で試験問題を盗み出す当初の実行犯であったBが出所することになり、その後をEという46工場の製本受刑者が引き継ぐのであるが、このEも44年に出所となってしまった。

「所内で盗む人間がいなくなってしまったので、BとEは外部からの侵入を考えたのです。後から分かったのですが、1月15日の未明に私たちが招集をかけられたときには、Bがあの梯子から所内に侵入していたのです」(坂本氏)

 Bは塀から約10メートル東の印刷工場の屋根によじ登り、クリッパーで天窓の横板を器用にはがし、そこから印刷工場に忍び込んだ。

 入試問題を盗み、午前4時頃に天窓から洩れる月明りにすかしてそれが大阪大学医学部のものであることを確認すると、入って来た経路で、工場から抜け出し、近くにあった肥料を作るために備蓄してある乾燥雑草の山の中に潜り込んだ。まさに坂本たちが、必死に所内で脱走者はいないかと血眼になって捜査をしていたときである。

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 脱走者がいないと分かり、捜査の輪が解けたあとも、Bはこの雑草の山の中に一昼夜、飲まず食わずで潜り込んでいた。そして祝日が明けた1月16日の午前3時にかねてより示し合わせていたAとEが再び塀の外からロープをたらすのを待ち、それをよじ登って脱出したのである。

「坂本は今、こう回顧する」

 Bの侵入時に血眼になって所内を捜査していた坂本は今、こう回顧する。

「実際に刑務所側は、侵入潜伏の疑いも持っていたので夜を徹して調べたのですが、20時間以上も身じろぎもせずに雑草の山の中に隠れていたBを発見することは出来ませんでした。

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