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 そして捜査員たちを驚愕させたのは、その用紙が、裁断すらされておらず、一見して印刷所から、直接持ち出したものであったことだった。大阪府警科学捜査研究所に鑑定に回すと、製本のあとが残っておらず、この仮説を裏付けた。

「入学試験を印刷しているのは、あそこしかない」

 事態は殺人からさらに広がった。捜査本部はAを殺した犯人もこの入試問題事件に連なる線にあるとして、知人関係に捜査の手を伸ばした。

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 すると、Aは1月24日に刑務所時代の仲間を呼びつけ、「今年の国立大医学部の入試問題が手に入ることになった。かなり太いカネになるから、買うという客を探してくれ」と依頼をしていたことが分かった。そのときは前年(昭和44年)の成功事例まであげて説明する熱の入れようだったという。

 やがて、塀の内と外で連携する数名の犯罪グループの存在が浮かび上がってきた。つまり、数年に渡って大阪刑務所で印刷されていた大学入試問題が何らかのかたちで持ち出され、組織的に販売がなされていたことが、露見したのだ。前代未聞の不祥事であった。

 そもそも入試問題が市中の印刷所ではなく、刑務所内で刷られるのは、外部に漏れるのを防ぐためであり、最も安全に管理されていると言われていた場所から、入試問題が何年も盗まれ続けていた事実は大学関係者をはじめとして社会に大きな衝撃を与えた。

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取材攻勢に、刑務所長は…

 3月初旬、坂本は新聞社のヘリコプターが刑務所上空を旋回する音を聞いていた。

「私たち現場の刑務官は何も知らされていなかったので驚きました。マスコミが何を取材しようとしていたのを知ったのかは、新聞やテレビの報道からでしたよ」(坂本氏)

 絶対に持ち出し不可能と思われていた刑務所内の印刷工場からどのような手段で試験問題は外に運ばれたのか?

 マスコミからの取材攻勢に大阪刑務所長・江村儀一郎(当時57歳)は、直ちに所長指示を発していた。それは主に以下の3点だった。

「マスコミ対応の窓口は総務部長に一本化し、職員が記者の取材を受けた時は、『直接刑務所に行って聞いて下さい』とだけ返答すること」

「直撃をされたときは、いつどこで誰に何を訊かれたかを文書で報告すること」

「警察の捜査には全面的に協力することとし、さらに管理部長以下が指名した職員によって刑務所としても事件の真相究明に当たること」

 3番目は自らの責任を痛感した江村が主体的に自浄しようという決意から出したものであった。

 大阪府警の捜査官が現地調査に入り、職員の事情聴取も行われる中、坂本は捜査協力をするようにとの特命を受けた。