「それで私は過去5年分の職員の出勤簿、超過勤務命令簿、勤務表、大学入試問題印刷期間中の所長指示、工場日誌などの大量の冊子や文書を、保安本部、文書倉庫、第4区の事務所から収集し、整理しました。
当時は複写するのは、青焼きしか無かったのですが、この作業のために大阪刑務所はわざわざ発売になったばかりのコピー機を買ったのですよ。感熱紙で取るタイプですが、私はそれを徹底的に利用して洗い出しました。
印刷工場に入るのには所長でさえも制限がかかりますし、入試問題を刷るときは、担当は助勤も含めて子どもや親戚に受験生がいないかどうか、確認までします。受刑者に至っては裸にして調べられますから、いったいどうしてそんなことが起きたのか、必死に調査しました」(坂本氏)
坂本は、警察から不正入試事件の容疑者として名前が上がった受刑者の身分帳簿、面会、手紙の発受の記録、診療記録を精査し、殺された主犯のAとの接点を取りまとめた。
大阪府警捜査本部の割り出したところでは、強盗殺人の罪を犯して入所していたBという男の名前が上がって来ていた。果たしてBは模範囚ということで昭和44年9月に仮出所していたが、その前はまさに印刷工場のある第4区に入れられていた無期懲役囚であった。出所後の雇用要請も印刷工として出していた。
2人の“接点”は意外なところにあった
Aは累犯で第3区に収容していた受刑者だった。第4区は初犯の長期刑を400名余り収容しているが、そことの接点は、ほとんど無い。Bとの絡みはいつどこで生まれたのか。
考えられるのは、ケガや病気の治療で入る病棟だけだった。坂本が受刑者の身分帳の収容舎房の記録(舎房を移動する都度、舎房名と居室番号が記載される)を照らし合わせたところ、ビンゴだった。AとBの入房が昭和37年の記録で符合した。2人は病棟の雑居房で同室になっていたのだ。
昭和46年3月6日の読売新聞は「刑務所印刷工場から盗む」「大学入試問題42年から3回」という見出しを立ててこう報じている。
自供によると、Bは大阪刑務所に服役中のさる三十七年十一月、盲腸で同刑務所内の病舎に入ったとき、目を悪くして同じ病舎にいたAから、「オレは来月十九日に仮出所できる。お前は印刷工で大学受験問題の用紙を印刷しているので盗み出してほしい」と持ちかけられた。その場では断ったが、Aが出所後、何回も面会に来て強要し、盗み出す方法は手紙で暗号によって知らせると何度も頼まれた。
病棟で計画が練られたことをBは自白している。やがて3年に渡って継続された不正入試事件のその全貌を坂本はこう語る。