戦後最大の倒産といわれた山一證券の破綻から20年が経った。1997(平成9)年11月24日は、勤労感謝の日の振替休日だったが、東京・新川の山一證券本社では、午前6時より緊急取締役会議が開かれ、有価証券含み損が2648億円あることを確認するのとあわせ、自主廃業へ向けて営業休止することを正式決定する。このあと、経営企画室部長だった石井茂(現ソニーフィナンシャルHD社長)が、詰めかけた報道陣の目をかいくぐって監督官庁である大蔵省へと赴き、営業休止届を提出した(石井茂『山一證券の失敗』日経ビジネス人文庫)。午前11時半からは野澤正平社長が、五月女正治会長らとともに東京証券取引所で記者会見を行なう。2時間にわたったその会見の終了間際、野澤は突然立ち上がると、「私らが悪いので、社員は悪くありません。一人でも多くの社員が再就職できるように、この場を借りて、お願いします」と涙ながらに訴えた。
山一證券では、1897(明治30)年の創業からちょうど100周年を迎えたこの年、総会屋への利益供与があかるみとなり、8月には三木淳夫社長ら役員11人が辞任した。この事件による信頼失墜から株価急落で信用不安が高まった結果、金融市場からの資金調達が困難となる。さらには社内調査で帳簿外の債務(簿外債務)が判明、その額が2648億円だった。営業休止を届け出る2日前の土曜日には、『日本経済新聞』朝刊で「山一証券自主廃業へ」と報じられ、大蔵省の長野厖士(あつし)証券局長が会見で、簿外債務の発覚を受け「次の営業日までに結論を出してほしい」と述べるにいたる。簿外債務の大半は、山一が損失を隠蔽するため、値下がりで含み損を抱えた株式や債券などを、グループ会社に時価を上回る価格で買い取らせた、いわゆる「飛ばし」で生じたものだった。法令違反となる簿外債務の存在が判明した以上、会社更生法による再建は困難と判断され、山一はついに自主廃業へと追い込まれたのである。
野澤社長の記者会見での突然の発言には、じつは伏線があった。11月22日の自主廃業の報道を受け、社内の従業員組合の幹部たちから「どうしても廃業というのなら、再就職について協力し、何としても社員を助けてほしい」と問い詰められると、野澤は「社員は悪くない。それはわかっています。一部の役員が悪いんです」と弁解した。これに対し、入社8年目の執行役員が泣きながら立ち上がると、「社長! こんなところで、そんな話をしてもしょうがないです。世間は社員が悪いと思っています。社員が悪くないのであれば、公の場で言ってほしいんです」と約束させたという(清武英利『しんがり――山一證券 最後の12人』講談社+α文庫)。
山一證券と同月には、三洋証券、北海道拓殖銀行と主要金融機関の破綻があいついだ。この年一挙に噴出したバブルのツケは、日本経済を「失われた10年」とも「20年」とも呼ばれる、長きにわたる低迷へと導くことになる。