1997年11月17日の北海道拓殖銀行経営破綻から20年がたった。97年11月は日本の金融史上に残る「悪夢の月」で、3日に三洋証券、17日に拓銀が破綻。24日に山一証券が自主廃業した。拓銀は都市銀行の破綻としては戦後初で、慌てた政府は銀行の破綻を予防するため、公的資金を投入する制度を整え、金融危機の火消しに動いた。97年の金融危機は、今日まで続く長期デフレの引金となったほか、金融機関の再編を加速させた。あの97年という年が日本経済の分岐点、ターニングポイントになったのは間違いない。
11月17日早朝に届いた「緊急記者会見」のファックス
あの日の朝を思い出すだけで、今も心に戦慄が走る。当時、私は毎日新聞北海道報道部の記者として、拓銀破綻を目の当たりにした。97年11月17日は月曜日。早朝、拓銀から報道各社に「緊急記者会見」のファックスが届いた。政府・日銀と拓銀の情報管理は徹底しており、北海道知事も当日朝まで知らなかった。日銀は前日夜に道内の拓銀本店・全支店に日銀特融の現金を輸送していたので、関係者は破綻を知りうる立場にあったが、マスコミはどこも事前にキャッチできなかった。
実は破綻前週の14日の金曜日、拓銀は銀行間のコール市場で資金を調達できなくなっていた。拓銀はバブル期に不動産などへの過剰融資で不良債権が増え、株価が急落していた。しかし、当時の大蔵省は「護送船団方式」で、「大手20行は潰れない」と多くの預金者が信じていた。
「お願いですから、待ってください」
それでも札幌市内で取り付けに近い動きがあったそうだ。「拓銀が危ないそうだから、預金を引き上げた方がよい」という噂を聞いたある中年女性が前週、拓銀の支店に行って「解約したい」と申し込んだ。すると、窓口の女性行員が目に涙をいっぱい浮かべ、「お願いですから、待ってください」と懇願した。女性はしぶしぶ帰宅したが、翌週に拓銀は破綻したという。