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「私をテレビに初めてひっぱり出したのは小田さんでした。作家がテレビに出るなんて思いもよらなかったのに、熱心に粘られました」(『週刊新潮』2014年11月13日号)

 と、小田さんの「墓碑銘」で瀬戸内さんが語っているように、女の作家をはじめ、「女の学校」という身の上相談コーナーに大島渚監督を連れてきたり、時期に合った人に目をつけ、番組に登場させた。その勘の良さ、テレビの“今”のとらえ方は見事で、出演者の信頼も厚かった。とくに瀬戸内さんとは親しく、マスコミで最初に手記を託すほど信頼していても不思議はない。

瀬戸内晴美が“寂聴”となった日

 私の記憶では、当時の出演者は、瀬戸内さんをはじめ宮尾登美子さん、澤地久枝さん、俵萠子さん、樋口恵子さん、吉武輝子さん、小沢遼子さん、木元教子さんなど錚々たるメンバーで、そのうちの1人に大宅壮一夫人の大宅昌さんもいた。私は30代。少しばかりものを書き始めた頃で、メンバーの1人として隅で小さくなっていた。その時が瀬戸内さんとの初対面だったと思う。

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 NHKでアナウンサーだった頃、朗読やナレーションもよくやっていたから、私に白羽の矢が立ったのだろう。

 渡された原稿を一度下読みしただけで時間になり、事の重大さはわかるので緊張はしたが、できるだけ淡々と読むことを心がけた。

51歳で得度した寂聴氏 ©文藝春秋

 のちに瀬戸内さん自身がマスコミ向けに公表した手記とは少し違っていたように思うが、そこに至るまでの経緯や心の変遷などについては詳しく書かれてはなく、事実だけが綴られていたはずだ。そんなに長い文章ではなかった。

 読み終えるとすぐ、手記を小田さんに取り上げられて私は車に乗って自宅に戻った。いや、戻らされた。

 あの手記を読んだのが私だということを知っているのは、今は亡き小田さんとその時スタジオでナマで聞いていたモーニングショーのスタッフぐらいだろう。いや、私の声をよく知らない人にはわからなかったろうし、番組の中でも誰が読んだかは明らかにされなかったはずだ。おかげで、私がマスコミに追われることもなかったし、各社とも自社の取材に必死だったはずだ。

 ただ私だけが、まるで自分が剃髪でもしたかのように、興奮がおさまらなかった。少なくとも、得度式に参加していたかのような当事者意識が、しばらくは消えなかった。

 最近まで、私はこの話を人にしたことがなかった。小田さんから口止めされたことが尾を引いたわけでもなく、なんとなく「寂聴」さんの誕生を真っ先に私が知っていたのを口にすることが憚られた。