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 寂聴さんにもその話をしたことはない。小田さんが、私が読んだことを伝えたかどうかも知らないし、もし知っていたとしても、50年も前のこと。寂聴さんが忘れていても不思議ではない。

 その後も仕事やパーティなどでお目にかかることは度々あったが、その話はしなかった。

寂聴の飛び越えた“深い溝”

 11月9日、99歳で他界されて、あの時に思いを馳せる。51歳。ちょうど人生の半ば、なぜ瀬戸内さんは寂聴と名を変えて得度したのか。私なりに考えてみた。

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 紅葉燃ゆ 旅立つ朝の 空や寂

 その日、寂聴さんが詠んだ俳句である。

 マスコミをはじめ友人知人に配られた挨拶状には、今までつきあいのあったことへの感謝と共に、こう記されていた。

「……いつとはなくわが作品にうながされ、ひそかに出離の想いを抱きつづけるようになっていました」

 私が読んだ手記にも「わが作品にうながされ……」の一文があったように記憶している。ということは、瀬戸内さんの作品のひとつひとつが、いわゆるフィクションとしての小説ではなく、自分自身の体験とぴったり重なり合うことを意味している。

 彼女の生まれ育った環境も、奇しくも仏具店ということで、普通の人よりは見様見真似で仏の道に近いものがあり、慣れ親しんでいたかもしれない。

若き日の寂聴氏 ©文藝春秋

 少女時代に読み耽った日本の古典、とくに平安時代の源氏物語をはじめとする作品の女人の多くは、源氏が憧れ続けた藤壺も、源氏の愛を拒み続けた空蝉も、みな最後は尼となる。平家物語でも、建礼門院をはじめとする残された女人達。寂聴さんが開いた寂庵にほど近い嵯峨野の祇王寺などは、妓王、妓女の姉妹をはじめ、彼女たちから平清盛の愛を奪った仏御前まで、最後は尼となって共に暮らした因縁の地だ。祇王寺で尼になった元芸妓の智照尼をモデルに『女徳』という小説まで書いている。

 素地は十分にある。意識するしないにかかわらず、寂聴さんの心の底に尼という生き方があることが刷り込まれていたことは疑いがない。

 突然思いついたわけでも、遠い世界の出来事でもない、身近な親しさがあったに違いない。

 とはいえ、その世界に我が身を投じることと、夢想していることの差はあまりにも大きい。その深い溝をどうやって飛び越えたのか。

「わが作品にうながされ」とあるからには、その作品に戻るしかない。